あのころの青空 Crazy / エアロスミス 【音楽の紹介】
高校生の頃この曲を聞いていたなら、次の日には学校を飛び出して狂ったよう遊んだだろう。
音楽というのは不思議なもので、言葉で表すことができない感情とか情景のようなものを感じさせてくれる。時には、忘れかけていた昔の記憶を鮮明に映し出してくれたりする。なぜそうした不思議な力が音楽にはあるのか、いまだに科学でもわからないそうだ。
エアロスミスの「Crazy」のPVは、青春時代の青空とわけのわからない開放感ときらびやかさと切なさを思い出させてくれる。この曲のPVをみて何がなんだか分かる人はいないだろう(笑)。ストーリーも意味も理由もわからない。しかし、だからこそこのPVが伝えたいことが伝わるのだ。わけがわからいけどテンションだけは高かった青春時代のあの頃を、なんとなくいい時代だったと振り返らせてくれる。
人生を変えた本 / 『人間失格』太宰治【本の紹介】
僕が太宰治と出会ったのは高校二年の秋だった。いまでもあの時の衝撃を忘れられない。ツタヤで手にした『人間失格』の冒頭を立ち読みした時、体中に経験したことのないなにかが入り込んでくるのを感じた。冒頭から10ページほど読んで、ふと意識が戻りあたりを見回すと、世界が変わっていた。正しく言うと、『人間失格』の冒頭を立ち読みしていた一瞬の間に、世界をみる目が変わってしまっていたのだ。
僕の人生に太宰治の小説が及ぼした影響は計り知れない。人間失格を読まなければ、「文学」というものの魅力を知ることはなかったかもしれない。人間失格を読まなければ、人間の心の奥底を知ることはなかったかもしれない。人間失格を読まなければ、もっと社会にうまく適合できたかもしれない。この本の影響には、良いことも悪いこともあった。でも僕は、この本に出会えてよかったと思っている。
『人間失格』は僕だけでなく他の多くの若者にも影響を与え続けてきたようだ。文庫本の累計発行部数は600万部を超え、現在になっても発行部数を伸ばしている。2010年頃には、発売後50年を経て社会現象となるまでにヒットしたのを記憶している。
人間失格が、若者に影響を与えるのはなぜか。太宰治に影響を受けた若者の気持ちを、又吉さんが気持よく代弁してくれている。
又吉直樹(ピース)の名言コラム「確かにお前は大器晩成やけど!!」
「多くの読者が、僕と同じようにこれは自分の物語だと感じるらしい」
僕もご多分にもれず、葉蔵(主人公)は自分の分身じゃないかと思って読んだ。ちなみに、爆笑問題の太田さんも『晩年』を読んで、自分のことをしゃべっていると感じたという。太宰治の小説は、ある種の若者に、すさまじい共感を呼び起こす、ということだ。
不幸で哀れみに満ちた生き方を描いているにも関わらず、将来の開けた若者が共感してしまうのは、葉蔵の心情吐露があまりにも、ある種の人にとって馴染みのあるものだからだと思う。太宰治は、読者が「自分にしかわからないだろう」、「自分にしかわかっていなかったことだろう」と思っていた、言葉にできない感覚・違和感を、これでもかというくらいに描いている。特に、「恥の多い生涯を送ってきました」からはじまる数ページの幼少時代の追憶のエピソードは、僕にすさまじい共感を呼び起こした。「こんなことを書いていいのか」、「こんな気持ちをもっていたのは自分だけじゃなかったのか」と衝撃を受けた。
ある種の人にとって人間失格は予言書として映る。主人公の葉蔵に強烈に共感をする人は、当然自分の人生を葉蔵と照らし合わせる。そして、神様みたいにいい子だったと言われて廃人となる葉蔵のクライマックスを自分の人生の結末だと思ってしまう。あまりにも主人公に共感してしまうがゆえに、自分の人生も破滅に向かうのだと予言されているように感じるのだ。僕も、自分は葉蔵のような最期を迎えるのだと思った。
『人間失格』が、高校生の僕に与えたなにかとは、一種の挫折だったといえるだろう。「自分にしかわからないだろう」、と思っていた言葉に出来ない感覚を、太宰治が既に日本を代表する文学作品として残していたという事実。自分の感じていたことは、ぜんぜん特別なことではないと知らされたことで、若い僕の根拠のない優越感を打ち砕いた。そして、自分のような感性をもつ人間が行き着く先は、人間失格の主人公「葉蔵」のような破滅なのだという予言。自分は社会に適合できない人間として生きていかなけくてはいけないと予言されるのは、あまりにもつらいことだった。『人間失格』は、若い僕に絶望を味あわせ、それから僕はときたま破滅的な行動をとるようになった。
『人間失格』を読んでから僕は以前より考えに耽るようになった。高校の同級生からはネガティブになったと言って、煙たがられた。世の中で起こる物事をみては、人間の心の奥底を考えるようになってしまい、精神的につらい日々が続いた。本気で自分は社会不適合者なんだと思うようになった。
しかし、時間がたつにつれて、僕が高校生のころに抱いた絶望は、実際のところ取るに足らないものだと知った。歳をとるにつれ、人生は捉え方でどうにでも転ぶものだと知ったからだ。また、『人間失格』の主人公に強烈に共感してしまうのは、ひとえに太宰治の才能によるものだとだんだんわかってきたからだ。人間失格が与えた絶望は、人間失格という作品のもつ力を表していたわけだ。
それでも、『人間失格』は僕に大きな影響を及ぼしたのはたしかだ。『人間失格』が僕に与えた絶望は、『人間失格』という作品のもつ力を表していた。僕はその事実から、文学の奥深さを知った。また、『人間失格』のような小説が生まれるこの世界を素晴らしいと思った。そして自分も、そのような表現の輪の中に入りたいと思った。そうして僕は、文学、音楽や映画のような芸術に興味をもつようになった。『人間失格』は、僕に文学の素晴らしさを教えてくれたのだ。
人間失格を読む前の僕はもっと実務的で明るい性格の人間だった。『成り上がり』という、矢沢永吉の若き日の自伝がある。『成り上がり』は中学時代の僕にものすごく影響を与えた本だ。その本を読んだ影響から、苦しさや悔しさは努力によって解消されると考えていたし、悲しみは心の弱さからくる感情だと考えていた。頑張れば人生は今よりもっと良くなっていくし、人生を良くしていくことが何よりも大事なことなのだと思っていた。そのような考え方は、『人間失格』を読んでから覆されてしまったのだ。
『人間失格』では、実務的で明るい性格の人間は、実はとても意地が悪い人間なのだと表現されている。ヒラメという登場人物は、世間や常識を味方につけることでとてもうまく世渡りをするし、葉蔵の兄貴たちもまた世間体を気にする実務家タイプの人間だ。世間や常識の視点からみるとヒラメや兄貴たちはまともだ。しかし葉蔵の視点から見ると、彼らはまったく理解できない存在に映る。人の気持ちを理解することができず、汚い世俗にまみれた人間にみえるのだ。「実務的で明るい性格の人間=正しい」と信じていた僕の価値観は、誤った思想として描かれていたわけだ。
言ってみれば、『人間失格』は人間の負の側面にもスポットライトを当てるべきだと教えてくれたのだ。苦しさや辛さ、心の弱さを頭ごなしに否定するのではなく、そのような負の側面の正当性を認める必要があると教えてくれた。人間の負の側面の存在とその価値を知り、それまでの僕の価値観を壊してくれた。
この本を読んでから僕の人生は変わった、と思う。読んでいない人生なんて僕には予想できないから。ただひとつ言いたいのは、この本に出会った人生を送ることができて良かったということだけだ。
表現する理由 / 落合陽一 TEDxTokyo 2011
先日のニッポンのジレンマ「“会社やめたい”あなたに贈る仕事論」に出演していた落合陽一氏。自分探しの話題になった時、彼は「人生は無意味だ。問題は何を信仰するかだ」と話していた。その言葉をきいて、「僕と価値観似てるじゃん!」と感じて興味をもった。ネットで検索して、落合氏が2011年に講演をしたTEDTOKYOの動画をみた。この動画を見て、やっぱりこの人はすごい人だったんだなと感じた。
この時、落合氏は大学院生だろうか。最近テレビで見かける、けばけばしい姿とはかなり違ってはいるが、この頃から独特の雰囲気をもっている。ファッションもそうだし、しゃべり方もそう。そして思考も普通ではない。この頃の彼はどちらかというと芸術家だ。
プレゼンは、自分が何を表現したかったか、自分の表現したいことをどうやってかたちにしたか、という流れで進む。巨大なブレットボート(電気回路の実験用の基盤)に虫や植物をつないで価値観の変化と循環を表現した作品、粉ミルクと骨壷で人間の命の循環を表現した作品などを彼はつくってきた。彼はそのひとつひとつの作品にたいして、どういうテーマがあってどういう目的でつくったかを順序だてて説明していく。たとえば、「価値観が視点によって簡単に変わる」⇒「発光ゴキブリとホタルとの対比を表現する」、「震災の影響を表現したい」⇒「粉ミルクと骨壷で命の循環を表現する」というふうに。
この発表は僕に、「表現するとはどういうことか」ということを教えてくれた。僕自身これまでいくつかの美術展に行ったことはあるが、芸術家が作品をなぜうみだすのかちゃんとわかっていなかった。今はまだかたちのない、伝えたくてたまらないことを限られた方法でどうやって表現するか。単純だが表現とはまさにこの活動を繰り返していくことにほかならない。彼のプレゼンは、表現の大切な思考方法を教えてくれた。
彼の思想が僕と共鳴し、彼に興味を抱かせた。同じようにたくさんの人が落合氏の思想に共感するだろう。そのようにして思想は草の根を広げていく。作品は思想を表現する手段であり、観客は作品から作家の思想を読み取る。
落合陽一氏は、最初テレビで見かけた時は怪しいまがいものじゃないかと思ったが、もともと本物だった。やはり、有名になる人は突出した才能を発揮したからこそ有名になったんだと思った。
なぜ浮気をするのか。浮気や不倫はなぜ悪いことなのか
今年に入ってから、芸能界の不倫や浮気に関するスキャンダルの話題が数多くでてきた。謝罪会見、活動自粛など、僕たちにしてみれば一体なんの意味があるんだろうというような話題で騒がれた。
実際、芸能人のプライベートをスキャンダルにして騒ぐのは、週刊誌やテレビ局の策略といえる。テレビをみていると芸能人の不倫スキャンダルは他のニュース(大統領選など)なんかよりよほど重大なことかのように扱われているが、実際に騒いでいるのは、メディアや利害関係者、あとは暇な大衆だけだろう。
一部の利害関係者と暇な大衆だけが不倫スキャンダルで騒いでいるといっても、日本の社会が不倫や浮気を”良くないこと”としているのは確かだ。また、週刊誌が毎週記事を書くのに事欠かないくらいに、不倫や浮気のネタは社会に溢れている。
「なぜ人は浮気してしまうのか?」を科学的に解説 - GIGAZINE
不倫ってそこまで責められるべき事なのでしょうか?30歳男です。妻(34歳... - Yahoo!知恵袋
上に示すように、浮気や不倫に関する議論は盛り上がる。しかし、道徳論や常識論で片付けられてしまうことが多く、本質的な議論をすることは難しい。
なぜ僕たち(特に男)は不倫や浮気をしてしまうのだろう?なぜ不倫や浮気は”良くないこと”なのだろう?自分なりにちょっとだけ考えてみることにした。
一般的に女性より男の方が浮気をしやすいと言われている。女性は男の浮気に翻弄され悲しみを募らせる。
男が浮気をしやすいのには生物学的理由があると言われている。女性は生殖細胞を一個しかもっていないのに対し、男は数億個の生殖細胞を数日でつくることができる。また、卵子をもつ女性は男に比べて体内の子どもに対してより多くの投資をしなくてはいけない。そのため、女性は受精してからのリスクが高いので相手を慎重に選ぼうとするが、男は生殖細胞をより多く卵子に到達させようと行動する。より多くの卵子、つまり女を求める。
体内受精をする哺乳類では、体重に対する精巣の重さの割合が恋愛形態に関係していると言われている。精巣の重さの割合で比較すると、ヒトは乱婚のチンパンジーと一夫多妻のゴリラの間に位置する。乱婚のチンパンジーは精子競争をするため大量の精子を必要とし、一夫多妻のゴリラはオス同士の競争に勝つ必要があるため体が大きくなるというわけだ。この考え方では、ヒトには乱婚の可能性があることが示唆される。
ただ、生物学的特徴だけで男と女の性向差の理由を一概に決めることはできないのは確かだ。人間は他の動物とは違い、社会性をもつ種だ。動物の本能の部分と向社会的思考(理性)がせめぎあっているのが人間だ。生物学的観点から男の浮気を正当化して良いというわけではない。ただ、男が浮気をする本能をもつことは否定出来ない。
女性も浮気や不倫をする場合がる。これは、社会的な不満に原因があると考えるといいだろう。男のように生殖目的で異性を求めるのではなく、寂しさや不満足を埋め合わせるために他の異性を求める。女性が他の異性と行う性交は生殖目的ではなく、感情の充足のために行う。
恋愛に関する生物学的な説明は、以下の文献に面白く書かれています。
男は生物学的に多数の異性と交わるのを好む。では、なぜ不倫や浮気が良くないという価値観が現代社会にはあるのだろう?
一つは、一夫一婦制が法律によって定められていることにある。多数の妻をもつことは法律上できないよういなっている。また、結婚している男または女が他の異性と恋愛関係にあり、相手方が訴えた場合は、訴えられた側は不利な立場になることが多い。多くの異性と関係をもつことは、一夫一婦制に反するためたとえ独身時代であっても良くないと認識される。
だが、一夫一婦制は、最も正しい制度というわけではない。世界には一夫多妻制や一妻多夫制があるし、日本でも一夫多妻制が法律で決められたのは明治時代に入ってからだ。男女が一対一で一生過ごすという生き方は、世界標準でもないし、絶対的な正当性をもっているわけでもないことを忘れてはいけない。
純愛を美化する宗教や文化は、浮気や不倫は良くないという価値観を社会に浸透させた。キリスト教は純愛、というより純潔を良しとする宗教であり、江戸時代から日本に普及するようになってから、美化された恋愛価値観が社会に浸透した。一生ひとりの人に寄り添い、肉欲を封じながら生きていく価値観はある意味特殊であり、ニーチェに言わせればルサンチマンだということになるのだろう。また、純愛をテーマにした小説や映画が人の心を打つために、純愛至上主義という考え方が社会に浸透したと考えられる。
忘れてはならないのは、人間の感情だ。自分が一人でいる間に、相手が他人と仲良くしていると考えるのは、あまり気持ちのいいことではない。人間の「寂しい」という単純な感情を刺激するため、浮気や不倫は悪いことという価値観が形成されていったのだろう。
いろいろな理由があるだろうが、今年にはいってからの過剰なスキャンダルのような場合に限って言えば、僕たちが不倫や浮気に騒ぐのは植え付けられた貞操観念という拘束を破っている人達に単純に興味をもつからなのではないかと思ってしまう。
それはあたかも、お金持ちがどんな人柄なのかを知りたがるように。優秀なスポーツ選手をみんなが知りたがり称えるように。
人間は、自分にはない能力をもつ人や、自分にはできない生き方をしている人に興味をもつ性向がある。
貞操観念という拘束を破る勇気と才能をもった人間に興味をもち、僕たちは彼らを、表面ではけなしながらも心のどこかでは賛美しているのではないだろうか。
いつ何が降りかかってきても文句は言えない【雑文】
今日、改めて思い知らされたことがある。それは、
「僕たちはいつ何時、どんな悪いことが降りかかってきても文句をいうことはできない」
ということだ。
ここ数日、精神が不安定になっていて、自分のアイデンティティを見失っていた。自分を見失い、過去の教訓を忘れて、現実に流されるがままになっていた。そんなちょっとゆるんでいた僕に、人生は教訓を思い知らせてくれた。
何もかもうまくいく日もあれば、悪いことが一斉にやってくる日もある。
昨日、大切な人の誕生日を祝ってあげることにしていたのに、僕は途中で体調を崩してしまい、十分に祝ってあげることができなかった。自分のふがいなさに憤りを感じつつ、意識が朦朧とするなかで家に帰った。普段めったに体調を崩すことはないのになぜこんな日に限って……、と運の悪さを嘆いた。
ほとんど眠ることもできずに翌朝になって会社に行くと、朝一番の会議で司会を担当するはずだった同僚が急に休んだため、僕が代わりに司会をすることになった。ほとんど準備できていないし、意識も朦朧としている中でぐだぐだの司会をやってしまい、周囲からの評価を下げることになってしまった。
昨日の夜から散々な目にあった。悪いことは一斉にやってくるものだと感じた。
なぜこんなに悪いことが続くのだろう、と憤った。
「今回、自分が大切な人や会社の人からの評判を落としたのは運が悪かったせいだ。本当の自分はこんなんじゃない!」
と最初は考えていた。
でも、体調が良くなって考えてみると、周りからしてみれば僕の運の悪さなんてわかるはずがないじゃないか、と気づいた。運のいいときの僕も、悪いときの僕も、そのとき僕を観た人にとっては、どちらも僕であることに変わりはない。僕のその日の運に関係なく、「あの人はああいうひとなんだ」と思われるだけだ。それに、運のよさも悪さも含めて、僕がしたパフォーマンスは全て僕の行動結果(仕事)じゃないか。
つまるところ、運の悪さを言い訳にすることはできないということだ。
いつ何が降りかかってきても、僕たちは文句を言うことはできない。
一生分の運の悪さが一気に押し寄せてくることだってありえなくはない。空から大量のイワシが降りかかってくることもあるかもしれない。それでも僕たちは文句をいうことはできない。僕たちにできることは、あらゆる運の悪さにあらかじめ準備をしておくこと。それでも、容赦なく押し寄せる運の悪さを防ぎきれなかったときには、ベストを尽くすしかない。
教育の破壊 / ニッポンのジレンマ「ディスラプトってなんだ?」
価値観をゆるがされる話を聞くことができた。テーマである「教育」と「ディスラプト」のつながりはいまいち理解できなかったが、いままで受けてきた教育への僕がもっている価値観はディスラプトされた。
「キングス・クロス駅の写真をみて感じることを述べなさい」
大学入試ではこんな入試問題が出されるそうだ。おそらくこの問題は瞬発的なエッセイの力を試されているのだろう。Google検索のような外部から情報を得る手段のない状況で、いかに自分の魅力を人に伝えられるか。そういう力が大学入試で試されるようになっているわけだ。
社会人になってから感じるが、こうした瞬発的に意見を述べる能力というのは、社会で常に試される。エレベーターテストや会議での発言、休憩時のちょっとした会話のときなど、、、
僕が受けてきた学校教育では、こうした瞬発的に自分を伝える能力というのはあまり求められてこなかった。詰め込み教育がいかに実社会で求められる能力とかけはなれていることだろう。
フーコーが指摘したらしいが、学校・軍隊・刑務所はおなじ構造で成り立っているそうだ。僕は学生時代を美化して振り返ってしまうことが多いが、あの頃は苦しいことがとても多かったのは事実だ。新しいことを知るのは楽しかったが、宿題を出されたり定期的に試験をされるのは苦痛だった。僕が感じた苦痛は、学ぶために必要なものだったかというと疑問をもたざる得ない。苦痛のあるところに矛盾があり改善の余地がある。きっと学校教育はまだまだ不完全なのだ。
十代は学ぶ期間で、二十代を超えると働かなくてはいけない、という現代の人生設計の考え方にも疑問をもつべきだと神野さんが言っていた。僕自身、社会人になってからの方が学びへの意欲が高くなった。この先一生働き続けなければいけないと思う必要はないんだ。神野さんの発言に希望をもらえた。
この番組は、そもそも教育とは何なのか、教育は必要なのかという視点を抱くまで、今の教育に対する価値観を「ディスラプト」してくれた。
いま、世界中で流れている音楽 / 「 I've Been Loving You Too Long 」 Otis Redding【音楽の紹介】
久しぶりに音楽をききたいと思った。
久しぶりに生きていてよかったという気分になった。
久しぶりに音楽の心地よさに包まれたような気分になった。
今の時代、いつでもどこでも音楽を聴くことができる。
レストラン、カフェ、テレビCM、車の中、、、
いつもどこかで音楽が鳴っている。
携帯プレーヤーがあれば、どこへでも音楽をもちはこべる。
ネットとパソコンがあれば世界中の音楽を探せる。
だけど、本当に音楽を聴いている瞬間はどれだけあるだろう。
僕らは、音楽を求める気持ちをどれだけもっているだろう。
音楽があってよかったと思うことはどれだけあるだろう。
いま世界中でなっている音楽は無駄になっていないか。
右耳から左耳にながれていく音楽をきいているうちに、
感動する心を失わないようにしよう。
脳内麻薬 人間を支配する快楽物質ドーパミンの正体 / 中野信子 【本の紹介】
先日の小池龍之介さんの話からドーパミンをはじめとする神経伝達物質に興味を持ち始め、そのきっかけで読んでみた一冊。
依存症がドーパミンを放出する報酬系に関係しているということが書かれている。
既に神経伝達物質や薬物に関して知識のある人はこの本からはあまり新鮮な驚きをうけないだろうが、僕のようなこれまでよく知らなかった者にはこの本の内容には驚きの連続だった。
ドーパミンやセロトニンといった物質が人の行動をコントロールしているとなれば、ぼくら人間は目の前の人参を追いかける存在ということになる。数万年、数千年かけて目の前の人参を追いかけてきた結果が文明ということになる。
報酬系がトリガーとなることで活動をコントロールされ、遺伝子を残すマシンである人間はそもそも幸福に生きることを目的にできていない。薬物の後遺症に人々が苦しむように、快楽を連続して享受することができるように僕達の身体はできていないのだ。
報酬系が作用することが人間の究極の幸福と言うのなら、薬物だろうがギャンブルだろうが愛のある家庭だろうがなんだろうが、報酬系が作用している人間はともに幸福ということになる。幸福度を測りたいと思うのなら、現在のような曖昧な調査方法ではなく、脳内のドーパミンの放出量を図るのが理にかなった方法だということだ。
報酬系が作用するように人間の行動が仕向けられていて、文明は人間がドーパミンを求めて作り上げた産物だというなら、人間の歴史はまさに幸福を求めてきた旅路だといえる。欲望を求めて生き、時には苦しみを味わい方向修正を繰り替えしながら生きていくというのが幸福への最短経路といえるかもしれない。だとしたら、僕たちはあるがままに生きていればいいということだ。難しい倫理とか道徳をつくることなく、あるがままに生きていれば僕たちは身体に導かれて快楽への道を模索する。僕達の身体は報酬(ぶら下げられた人参)に支配されている。
小説は日常に意味を与える 【雑文】
保坂和志さんの本に書かれていたことがしばらく頭からはなれない。
日常が小説のいい悪いを決めるのではなく、小説が光源となって日常を照らして、普段使われている美意識や論理のあり方を作り出していく。
http://www.amazon.co.jp/書きあぐねている人のための小説入門-中公文庫-保坂-和志/dp/4122049911
僕はいまだ保坂さんの言っている意味を十分に理解できているとはいえないが、僕の中では以下のような単純な図式でこの言葉が理解されている。
美意識や論理の流れ
× 日常 → 小説
◯ 小説 → 日常
つまり、日常から意味が見出され小説ができるのではなく、小説が日常に意味をうみだす。
以下に小説や音楽が日常に意味を与えたと思われる例をつらつらと示す。
- ビリー・ジョエルが「Honesty」で、「大都会では誠実さ(Honesty)をみつけるのが大変だ」と歌ったことで、大都会で生きる人々の誠実さが照らされた。
- 村上春樹が「資本主義社会に生きる若者の不確かさ」を小説によって描くことで、資本主義社会に生きる若者はことあるごとに「やれやれ」とつぶやくようになった。
- 平易な言葉を繰り返した歌詞を書く西野カナがヒットしたことで、現代の若者は平易な言葉でコミュニケーションをとっているとおじさんおばさん方にぼやかれるようになった。
俯瞰した視点から世界をみると、世界はカオスに変化し続ける閉鎖系にすぎない。「愛」や「幸福」が大事だとかいう社会の価値観は、カオスに変化しただ流れていく諸行無常の世界からはうまれない。人間がふと立ち止まり、日常を切り取って照らし、小説(または他の表現形式)で象徴性をもたせることによって、ただ流れていく世界に意味を与えるてきたのだ。私達が朝起きてから寝るまで、日常はそのようにして意味を与えられている。
小説家を始めとする芸術家は、日常に意味を与える者だといえる。ただ流れていく世界をいかに照らすことができるか。彼らの仕事はその才能にかかっている。いまだ意味を与えられてはいないが、多くの人びとの承認を得ることができる日常があるかもしれない。あなたが平凡だと嘆く日常に面白さが隠れているかもしれないのだ。
幸せとは? / ニッポンのジレンマ 競争と共生のジレンマ 反響編【雑感】
僕らが「幸せ」と呼ぶものは持続性のない恍惚なのだろうか。
小池龍之介さんの発言の中でハッとさせられたものを要約すると
「お金がある 友達がいる 誰かに褒められた」→ ドーパミンが分泌
↑ 一種の脳内麻薬にかかっている状態
ドーパミンが突発的に分泌された状態に持続性はない
つまり現代の幸福はジャンキーと同じ
小池さんの幸せに対する考えはとても参考になった。
幸福とは何か?ということを考える際に神経伝達物質(ドーパミン・セロトニン・ノルアドレナリンなど)の分泌を考えることは非常に有用だろう。言ってみれば、これらの神経伝達物質をコントロールすることができれば幸せになることは難しいことじゃないし、人を強制的に幸せにすることだって可能だ。ある意味、(今話題の)覚せい剤というのは人間が幸せになるための究極の道具といえるのかもしれない。摂取すると破滅を伴うという意味で覚せい剤は核爆弾と同じようなのものではあるけど。
おそらくだけど、人の幸せに関する議論は既に完成されかけているのかもしれない。僕は幸せというものを誇大的・抽象的に考えすぎていた。小池さんは幸せ自体に価値をもたないという考え方をしている。幸せを俯瞰してしまった小池さんはまさに悟りをひらいたと言えるだろう。
だまってトイレをつまらせろ 朝日新聞 政治断簡 / 高橋純子【雑感】
タイトルに惹かれて全文読んでみたらとても面白い文章だった。普段記者は個性を出さないようにして記事を書いているけれども、エッセイ風の記事をちょっと個性を出して書いてみてもやはり面白い文章をかくもんなんだなあと感心した。こういう、うまくまとまった小話はネットではあまりみたことはない。文章のプロの仕事はやっぱちがうなあという感じ。
個人的に印象に残ったのは次の文章。
他者を従わせたいと欲望する人は、あなたのことが心配だ、あなたのためを思ってこそ、みたいな歌詞を「お前は無力だ」の旋律に乗せて朗々と歌い上げる。うかうかしていると「さあ、ご一緒に!」と笑顔で促される。古今東西そのやり口に変わりはない。
実は先日、「うまい話」にだまされそうになった。彼らが僕を勧誘し洗脳するやり口はまさに上で書いているような手法だった。
君たちは社会の権力者に騙されている→君たち若者は覇気をもち幸せな未来をつくっていかなくてはいけない→私たちは真実を知っている。君たちの手助けをしよう
こうした洗脳の手口は大昔からあるのだろう。彼らは実にうまく僕を洗脳した。彼らの話を聞いていると希望がわいてきて、脳からドーパミンが分泌され、気持ちよくなってくるのだ。おそらくアルコールやドラッグを摂取した時と同じような状態なのだろう。その味を占めて抜け出せなくなる人は彼らにいとも簡単に騙される。僕は抜け出せたが、数日間、精神に後遺症が残った。
洗脳からぬけ出す鍵は客観性をもつこと。筆者が表現するところの「だまってトイレをつまらせろ」。一歩引いた視点が自由を見つけさせてくれる。
筆者と同じように僕も、トイレをつまらせろ、が脳内にこだましそうだ。
幸福になるために重要な3つのもの
人の幸福に影響を与えるものは大きく3つあると考えている。
その3つとは健康・情報・人だ。
人生で一番悲しいことはなんだろう。
大切な人の死を挙げる人は最も多いのではないだろうか。
日本人の3大死因はがん・心疾患・脳血管疾患である。
これら3つはすべて生活習慣に起因する疾病、つまり生活習慣病だ。
また、20代以上の人の自殺の動機は健康問題が最も多い。
一番自分が悲しいことを防ぎ、幸福な人生を送るためには健康が必要なのだ。
君は何で情報を得ているだろう。
ネット、テレビ、新聞、口コミ……。
それらのメディアは誰かが意図をもって発信している情報だ。
もしそれらのメディアすべてが「君は不幸だ」と発信してきたら信じるだろうか。
多かれ少なかれ、TVCMやネット広告などのメディアは「君は不幸だ」と言ってきているようなものなのだ。
また、好むと好まざるとにかかわらず僕たちは情報の影響を受けてしまう。
悪い夢の話を聞けば睡眠中にみる悪い夢のパターンが増え、いい夢の話を聞けばいい夢のパターンが増える。
情報に左右されず幸福な夢をみるためには情報の取捨選択が必要なのだ。
社会の常識・価値観を決めているのは誰だろう。
人の行動を縛り付けているものは何だろう。
社会の常識・価値観はすべて人間が作り出している。
人と時代が変われば常識・価値観も変わる。
僕たちが自由に行動できないのは、自分の行動に誰かが反感をもち攻撃してくるからだ。
幸福にこだわりたければ自分の周囲を囲む人にこだわらなくてはいけない。
よく、幸せになるにはお金が必要だという。
お金は手段(貨幣)だ。
お金と交換できるものに価値があるかどうかが大事で、お金そのものに価値はない。
お金が幸福に影響するわけではない。
お金・仕事などは上記の3つ、健康・情報・人にこだわるために必要な手段であって優先的に考えなくてはいけないことではない。
それがわかれば僕達の生活はもっとかわっていくだろう。
芸術は説明できない
ずっと以前からもどかしかしいと思っていた。
自分が感動した素晴らしい小説・映画・音楽について誰かに説明する時、どんな言葉、身振りを使って表現しても、その素晴らしさを説明できた気がしない。
味わった感動を言葉にしようとして感動の具体像を追いかけると、手を伸ばせば伸ばすだけ遠ざかり、しまいには一体どんな感動だったかさえも霧消してしまうというもどかしさを繰り返した。
例えば、文庫本の裏表紙によく書いてある小説のあらすじはその小説の魅力を伝えるだろうか?裏表紙のあらすじを読んでその小説のことをわかったと思う人は少ないだろう。
そんなもどかしさの理由を説明した文章を保坂和志さんの本にみつけた。
「本当の小説とは、その小説を読むことでしか得られない何かをもっている。小説だけではなく、優れた音楽や美術など、芸術とはすべてこういうもので、それらに接した時の『感じは』、私たちが普通に使っている言葉では説明できない」『書きあぐねている人のための小説入門』保坂和志
保坂さんが語っているとおり、ある芸術を他の方法で説明することは不可能なのだ。
例えば、夏目漱石の『こころ』は、文字を始まりから終わりまで順序通り追っていくことでしか理解することはできない。
他の表現手段(音楽、絵、概念図、あらすじ)で説明したなら、その時点で『こころ』とは異なるものになってしまう。
ある芸術を他の形式で表現することはできない。
それでも誰かに好きな作品を紹介したいと思うのなら、あらすじやテクニカルな解説をするよりも、自分が読んでいて感情をどう動かされたか、行動がどう変わったか、ということを「とても素晴らしいんだよ!」という熱意をもって語ることが最も良い手段だろう。ただ、それでももどかしさを払拭することはできない。
若さゆえの過ち / 立花隆の言葉から
僕が21歳頃に読んだ、立花隆の言葉を紹介する。
「そういう経験を踏まえた上で、今からはっきりと予言できることは、君たちの相当部分が、これから数年以内に、人生最大の失敗をいくつかするだろうということです」
言葉どおり捉えてしまうと怖い予言だ。若さゆえの過ちとよく言うし、若者は失敗と隣合わせの存在だというのが世間一般の通説らしい。
僕自信、数年前に大きな失敗といえる経験をした。今はその過ちで逸れた道の軌道修正をしながら生きている毎日だといっても過言ではない。
なぜ立花氏は失敗を予言するのか、なぜ若者は失敗と隣合わせの危うい存在なのだろう。
僕自信の失敗経験を踏まえて考えてみる。
若者、特に自分の一部の能力が他の人あるいはある仕事を達成するための基準よりも突出して高い場合、自分の能力を過信しやすい。若くしてそのような突出した能力をもつと、他の能力は一般の人よりも著しく低い場合だったとしても、自分は何でもやれるという”全能感”を覚えやすい。
図1は、ある挑戦に求められる能力に対して特定の能力は突出しているものの他の能力は必要条件を満たしていない様子を模式的に表している。
図1:若者と挑戦の関係
求められるレベルに対してあるひとつの能力が超えているとき、若者が自分は「やれる!」と過信して挑戦してしまうことがある(特にその能力が華やかで他人の承認を得られやすいものである場合)。その過信した状態でリスクのある挑戦をしてしまうと、他の能力が一般の人よりも著しく不足しているために、しょうもない原因で失敗してしまう結末となる。
なぜ若者が無謀な挑戦をしやすいかというと、自分の得意な能力以外の能力がいわゆる「社会常識」に達していないために、自分と社会の関係を客観的にみることができないためだ。
多くの若者は実経験が浅く、本や教科書というメディアを媒介として社会を知っているだけ。また、限定的なコミュニティの中でしか生きてきていないため自分自身について理解できているとは言いがたい。
”社会”と”自分”を知らないと客観的な判断をすることは難しいだろう。だから無謀な挑戦に手を出してしまうのだ。
立花氏は、NHKの番組でこうも語っていた。
「個人でも仕事でも、いかにほかの人間を巻き込んで自分たちのやりたい方向に全体を持っていくか。それにこの後の人生の一番大事なことはつきると思う。 人をどうやって巻き込むか。熱意と言葉の力。言葉をより活かすためには熱意をもって語ることが必要。
これからいろんなことをやるんだろうけど、大体失敗します。思った通りになりません。それを覚悟してとにかく一生懸命やることを続けてもらいたいと思います」
この立花氏の言葉は、失敗と隣合わせの若者にとって希望だ。
社会常識もなく、いびつな能力パラメータであっても、他の人を巻き込み自分に足りない部分を補うことで成功することはできると語っているわけだ。
そして、他の人を巻き込むのに必要なのはコミュニケーション力なんていう抽象的なものではなく、熱意と言葉だと語っている。
若者よ、思いを伝えるのだ。熱意の醒めないうちに。仲間を巻き込み大きな熱塊となれば、失敗を恐れることはない。
キヨシローのスゴさ / 宝くじは買わない RCサクセション
先日、車を運転している時にRCサクセションの「宝くじは買わない」を聴いて、忌野清志郎さんがなぜあれほどまでに人々に支持されるようになったのかわかった気がしたので書き留めてみる。
”「宝くじは買わない」(たからくじはかわない)は、RCサクセションのデビューシングル。1970年3月5日発売。発売元は東芝音工。
作詞:忌野清志郎 、作曲:肝沢幅一” 宝くじは買わない - Wikipedia
芸術作品を要約するなんて作品を壊してしまうようでおこがましいが、この曲の歌詞を一言で要約すると、
「僕は宝くじは買わない。だって僕にはお金で買えない恋人がいて、これ以上ないくらい幸せだから」
となる。
僕がこの曲のどこをすごいとおもったかというと、
「『愛はお金で買えない』という古来から人々が口にする言葉をもとに歌詞をつくり、お金がすべてという価値観への批判を含みながら、究極のラブソングでもあり、また軽快なリズムにのせて『今より幸せになれるはずがない』と断言してしまう純粋無垢で愛される歌い手をユーモラスに表出させている」
ところである。
宝くじを買う人、というのは夢をみて買っているわけで、けして生活費を稼ぐために買っているわけではない。宝くじを買う、という行為は、お金があれば幸せになれる、という価値観があることを前提としている。忌野清志郎はその本質を突き、お金がすべてという価値観への懐疑を提供している。
また同時に、「今より幸せになれるはずがない」と断言する歌い手をどこか喜劇っぽく描くことにより「愛はお金では買えない」という言葉への懐疑を示すことにも成功している。
そして、この曲を当時(60年代〜70年代)の若者の”舞台”であった四畳半のアパートの一室で恋人に向けて弾き語りをすればラブソングにもなるのである。
この曲はデビュー曲とは思えない程の完成度をもっており、短い歌詞の中に、その後活動を終えるまで褪せることのない忌野清志郎の魅力がすでにいっぱいにつまっている。
何気なく聴いていれば、ただのフォークソングに過ぎないが、よくきけば様々な思想をのせた驚くほど完成度の高い曲であることがわかる。
こんな歌詞を作ってしまう忌野清志郎はやはり天才である。