小説は日常に意味を与える 【雑文】
保坂和志さんの本に書かれていたことがしばらく頭からはなれない。
日常が小説のいい悪いを決めるのではなく、小説が光源となって日常を照らして、普段使われている美意識や論理のあり方を作り出していく。
http://www.amazon.co.jp/書きあぐねている人のための小説入門-中公文庫-保坂-和志/dp/4122049911
僕はいまだ保坂さんの言っている意味を十分に理解できているとはいえないが、僕の中では以下のような単純な図式でこの言葉が理解されている。
美意識や論理の流れ
× 日常 → 小説
◯ 小説 → 日常
つまり、日常から意味が見出され小説ができるのではなく、小説が日常に意味をうみだす。
以下に小説や音楽が日常に意味を与えたと思われる例をつらつらと示す。
- ビリー・ジョエルが「Honesty」で、「大都会では誠実さ(Honesty)をみつけるのが大変だ」と歌ったことで、大都会で生きる人々の誠実さが照らされた。
- 村上春樹が「資本主義社会に生きる若者の不確かさ」を小説によって描くことで、資本主義社会に生きる若者はことあるごとに「やれやれ」とつぶやくようになった。
- 平易な言葉を繰り返した歌詞を書く西野カナがヒットしたことで、現代の若者は平易な言葉でコミュニケーションをとっているとおじさんおばさん方にぼやかれるようになった。
俯瞰した視点から世界をみると、世界はカオスに変化し続ける閉鎖系にすぎない。「愛」や「幸福」が大事だとかいう社会の価値観は、カオスに変化しただ流れていく諸行無常の世界からはうまれない。人間がふと立ち止まり、日常を切り取って照らし、小説(または他の表現形式)で象徴性をもたせることによって、ただ流れていく世界に意味を与えるてきたのだ。私達が朝起きてから寝るまで、日常はそのようにして意味を与えられている。
小説家を始めとする芸術家は、日常に意味を与える者だといえる。ただ流れていく世界をいかに照らすことができるか。彼らの仕事はその才能にかかっている。いまだ意味を与えられてはいないが、多くの人びとの承認を得ることができる日常があるかもしれない。あなたが平凡だと嘆く日常に面白さが隠れているかもしれないのだ。