地図とコンパス

人はときに美しいと思える瞬間に出会うこともあります。人生の地図とコンパスをつくっていきましょう。

教育の破壊 / ニッポンのジレンマ「ディスラプトってなんだ?」

価値観をゆるがされる話を聞くことができた。テーマである「教育」と「ディスラプト」のつながりはいまいち理解できなかったが、いままで受けてきた教育への僕がもっている価値観はディスラプトされた。

 

「キングス・クロス駅の写真をみて感じることを述べなさい」
大学入試ではこんな入試問題が出されるそうだ。おそらくこの問題は瞬発的なエッセイの力を試されているのだろう。Google検索のような外部から情報を得る手段のない状況で、いかに自分の魅力を人に伝えられるか。そういう力が大学入試で試されるようになっているわけだ。

社会人になってから感じるが、こうした瞬発的に意見を述べる能力というのは、社会で常に試される。エレベーターテストや会議での発言、休憩時のちょっとした会話のときなど、、、

僕が受けてきた学校教育では、こうした瞬発的に自分を伝える能力というのはあまり求められてこなかった。詰め込み教育がいかに実社会で求められる能力とかけはなれていることだろう。

 

フーコーが指摘したらしいが、学校・軍隊・刑務所はおなじ構造で成り立っているそうだ。僕は学生時代を美化して振り返ってしまうことが多いが、あの頃は苦しいことがとても多かったのは事実だ。新しいことを知るのは楽しかったが、宿題を出されたり定期的に試験をされるのは苦痛だった。僕が感じた苦痛は、学ぶために必要なものだったかというと疑問をもたざる得ない。苦痛のあるところに矛盾があり改善の余地がある。きっと学校教育はまだまだ不完全なのだ。

 

十代は学ぶ期間で、二十代を超えると働かなくてはいけない、という現代の人生設計の考え方にも疑問をもつべきだと神野さんが言っていた。僕自身、社会人になってからの方が学びへの意欲が高くなった。この先一生働き続けなければいけないと思う必要はないんだ。神野さんの発言に希望をもらえた。

 

この番組は、そもそも教育とは何なのか、教育は必要なのかという視点を抱くまで、今の教育に対する価値観を「ディスラプト」してくれた。

いま、世界中で流れている音楽  / 「 I've Been Loving You Too Long 」 Otis Redding【音楽の紹介】

久しぶりに音楽をききたいと思った。

久しぶりに生きていてよかったという気分になった。

久しぶりに音楽の心地よさに包まれたような気分になった。

 

 

今の時代、いつでもどこでも音楽を聴くことができる。

レストラン、カフェ、テレビCM、車の中、、、

いつもどこかで音楽が鳴っている。

携帯プレーヤーがあれば、どこへでも音楽をもちはこべる。

ネットとパソコンがあれば世界中の音楽を探せる。

 

だけど、本当に音楽を聴いている瞬間はどれだけあるだろう。

僕らは、音楽を求める気持ちをどれだけもっているだろう。

音楽があってよかったと思うことはどれだけあるだろう。

 

いま世界中でなっている音楽は無駄になっていないか。

右耳から左耳にながれていく音楽をきいているうちに、

感動する心を失わないようにしよう。

 

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脳内麻薬 人間を支配する快楽物質ドーパミンの正体 / 中野信子 【本の紹介】

先日の小池龍之介さんの話からドーパミンをはじめとする神経伝達物質に興味を持ち始め、そのきっかけで読んでみた一冊。

依存症がドーパミンを放出する報酬系に関係しているということが書かれている。
既に神経伝達物質や薬物に関して知識のある人はこの本からはあまり新鮮な驚きをうけないだろうが、僕のようなこれまでよく知らなかった者にはこの本の内容には驚きの連続だった。

ドーパミンセロトニンといった物質が人の行動をコントロールしているとなれば、ぼくら人間は目の前の人参を追いかける存在ということになる。数万年、数千年かけて目の前の人参を追いかけてきた結果が文明ということになる。
報酬系がトリガーとなることで活動をコントロールされ、遺伝子を残すマシンである人間はそもそも幸福に生きることを目的にできていない。薬物の後遺症に人々が苦しむように、快楽を連続して享受することができるように僕達の身体はできていないのだ。
報酬系が作用することが人間の究極の幸福と言うのなら、薬物だろうがギャンブルだろうが愛のある家庭だろうがなんだろうが、報酬系が作用している人間はともに幸福ということになる。幸福度を測りたいと思うのなら、現在のような曖昧な調査方法ではなく、脳内のドーパミンの放出量を図るのが理にかなった方法だということだ。
報酬系が作用するように人間の行動が仕向けられていて、文明は人間がドーパミンを求めて作り上げた産物だというなら、人間の歴史はまさに幸福を求めてきた旅路だといえる。欲望を求めて生き、時には苦しみを味わい方向修正を繰り替えしながら生きていくというのが幸福への最短経路といえるかもしれない。だとしたら、僕たちはあるがままに生きていればいいということだ。難しい倫理とか道徳をつくることなく、あるがままに生きていれば僕たちは身体に導かれて快楽への道を模索する。僕達の身体は報酬(ぶら下げられた人参)に支配されている。

 

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小説は日常に意味を与える 【雑文】

保坂和志さんの本に書かれていたことがしばらく頭からはなれない。

日常が小説のいい悪いを決めるのではなく、小説が光源となって日常を照らして、普段使われている美意識や論理のあり方を作り出していく。

http://www.amazon.co.jp/書きあぐねている人のための小説入門-中公文庫-保坂-和志/dp/4122049911

 僕はいまだ保坂さんの言っている意味を十分に理解できているとはいえないが、僕の中では以下のような単純な図式でこの言葉が理解されている。

 美意識や論理の流れ

×   日常 → 小説
◯ 小説 → 日常

 つまり、日常から意味が見出され小説ができるのではなく、小説が日常に意味をうみだす。

 

以下に小説や音楽が日常に意味を与えたと思われる例をつらつらと示す。

  • ビリー・ジョエルが「Honesty」で、「大都会では誠実さ(Honesty)をみつけるのが大変だ」と歌ったことで、大都会で生きる人々の誠実さが照らされた。
  • 村上春樹が「資本主義社会に生きる若者の不確かさ」を小説によって描くことで、資本主義社会に生きる若者はことあるごとに「やれやれ」とつぶやくようになった。
  • 平易な言葉を繰り返した歌詞を書く西野カナがヒットしたことで、現代の若者は平易な言葉でコミュニケーションをとっているとおじさんおばさん方にぼやかれるようになった。

俯瞰した視点から世界をみると、世界はカオスに変化し続ける閉鎖系にすぎない。「愛」や「幸福」が大事だとかいう社会の価値観は、カオスに変化しただ流れていく諸行無常の世界からはうまれない。人間がふと立ち止まり、日常を切り取って照らし、小説(または他の表現形式)で象徴性をもたせることによって、ただ流れていく世界に意味を与えるてきたのだ。私達が朝起きてから寝るまで、日常はそのようにして意味を与えられている。

小説家を始めとする芸術家は、日常に意味を与える者だといえる。ただ流れていく世界をいかに照らすことができるか。彼らの仕事はその才能にかかっている。いまだ意味を与えられてはいないが、多くの人びとの承認を得ることができる日常があるかもしれない。あなたが平凡だと嘆く日常に面白さが隠れているかもしれないのだ。

幸せとは? / ニッポンのジレンマ 競争と共生のジレンマ 反響編【雑感】

僕らが「幸せ」と呼ぶものは持続性のない恍惚なのだろうか。

小池龍之介さんの発言の中でハッとさせられたものを要約すると

「お金がある 友達がいる 誰かに褒められた」→ ドーパミンが分泌 

              ↑ 一種の脳内麻薬にかかっている状態

ドーパミンが突発的に分泌された状態に持続性はない 
つまり現代の幸福はジャンキーと同じ

 

小池さんの幸せに対する考えはとても参考になった。

幸福とは何か?ということを考える際に神経伝達物質ドーパミンセロトニンノルアドレナリンなど)の分泌を考えることは非常に有用だろう。言ってみれば、これらの神経伝達物質をコントロールすることができれば幸せになることは難しいことじゃないし、人を強制的に幸せにすることだって可能だ。ある意味、(今話題の)覚せい剤というのは人間が幸せになるための究極の道具といえるのかもしれない。摂取すると破滅を伴うという意味で覚せい剤は核爆弾と同じようなのものではあるけど。

おそらくだけど、人の幸せに関する議論は既に完成されかけているのかもしれない。僕は幸せというものを誇大的・抽象的に考えすぎていた。小池さんは幸せ自体に価値をもたないという考え方をしている。幸せを俯瞰してしまった小池さんはまさに悟りをひらいたと言えるだろう。

 

NHK 新世代が解く!ニッポンのジレンマ | 過去の放送

だまってトイレをつまらせろ 朝日新聞 政治断簡 / 高橋純子【雑感】

タイトルに惹かれて全文読んでみたらとても面白い文章だった。普段記者は個性を出さないようにして記事を書いているけれども、エッセイ風の記事をちょっと個性を出して書いてみてもやはり面白い文章をかくもんなんだなあと感心した。こういう、うまくまとまった小話はネットではあまりみたことはない。文章のプロの仕事はやっぱちがうなあという感じ。

 

個人的に印象に残ったのは次の文章。

他者を従わせたいと欲望する人は、あなたのことが心配だ、あなたのためを思ってこそ、みたいな歌詞を「お前は無力だ」の旋律に乗せて朗々と歌い上げる。うかうかしていると「さあ、ご一緒に!」と笑顔で促される。古今東西そのやり口に変わりはない。

 

実は先日、「うまい話」にだまされそうになった。彼らが僕を勧誘し洗脳するやり口はまさに上で書いているような手法だった。

君たちは社会の権力者に騙されている→君たち若者は覇気をもち幸せな未来をつくっていかなくてはいけない→私たちは真実を知っている。君たちの手助けをしよう

こうした洗脳の手口は大昔からあるのだろう。彼らは実にうまく僕を洗脳した。彼らの話を聞いていると希望がわいてきて、脳からドーパミンが分泌され、気持ちよくなってくるのだ。おそらくアルコールやドラッグを摂取した時と同じような状態なのだろう。その味を占めて抜け出せなくなる人は彼らにいとも簡単に騙される。僕は抜け出せたが、数日間、精神に後遺症が残った。

洗脳からぬけ出す鍵は客観性をもつこと。筆者が表現するところの「だまってトイレをつまらせろ」。一歩引いた視点が自由を見つけさせてくれる。

筆者と同じように僕も、トイレをつまらせろ、が脳内にこだましそうだ。

幸福になるために重要な3つのもの

人の幸福に影響を与えるものは大きく3つあると考えている。

その3つとは健康・情報・人だ。

 

人生で一番悲しいことはなんだろう。

大切な人の死を挙げる人は最も多いのではないだろうか。

日本人の3大死因はがん・心疾患・脳血管疾患である。

これら3つはすべて生活習慣に起因する疾病、つまり生活習慣病だ。

また、20代以上の人の自殺の動機は健康問題が最も多い。

一番自分が悲しいことを防ぎ、幸福な人生を送るためには健康が必要なのだ。

 

君は何で情報を得ているだろう。

ネット、テレビ、新聞、口コミ……。

それらのメディアは誰かが意図をもって発信している情報だ。

もしそれらのメディアすべてが「君は不幸だ」と発信してきたら信じるだろうか。

多かれ少なかれ、TVCMやネット広告などのメディアは「君は不幸だ」と言ってきているようなものなのだ。

また、好むと好まざるとにかかわらず僕たちは情報の影響を受けてしまう。

悪い夢の話を聞けば睡眠中にみる悪い夢のパターンが増え、いい夢の話を聞けばいい夢のパターンが増える。

情報に左右されず幸福な夢をみるためには情報の取捨選択が必要なのだ。

 

社会の常識・価値観を決めているのは誰だろう。

人の行動を縛り付けているものは何だろう。

社会の常識・価値観はすべて人間が作り出している。

人と時代が変われば常識・価値観も変わる。

僕たちが自由に行動できないのは、自分の行動に誰かが反感をもち攻撃してくるからだ。

幸福にこだわりたければ自分の周囲を囲む人にこだわらなくてはいけない。

 

よく、幸せになるにはお金が必要だという。

お金は手段(貨幣)だ。

お金と交換できるものに価値があるかどうかが大事で、お金そのものに価値はない。

お金が幸福に影響するわけではない。

 

お金・仕事などは上記の3つ、健康・情報・人にこだわるために必要な手段であって優先的に考えなくてはいけないことではない。

それがわかれば僕達の生活はもっとかわっていくだろう。

芸術は説明できない

ずっと以前からもどかしかしいと思っていた。

自分が感動した素晴らしい小説・映画・音楽について誰かに説明する時、どんな言葉、身振りを使って表現しても、その素晴らしさを説明できた気がしない。

味わった感動を言葉にしようとして感動の具体像を追いかけると、手を伸ばせば伸ばすだけ遠ざかり、しまいには一体どんな感動だったかさえも霧消してしまうというもどかしさを繰り返した。

例えば、文庫本の裏表紙によく書いてある小説のあらすじはその小説の魅力を伝えるだろうか?裏表紙のあらすじを読んでその小説のことをわかったと思う人は少ないだろう。

 

そんなもどかしさの理由を説明した文章を保坂和志さんの本にみつけた。

「本当の小説とは、その小説を読むことでしか得られない何かをもっている。小説だけではなく、優れた音楽や美術など、芸術とはすべてこういうもので、それらに接した時の『感じは』、私たちが普通に使っている言葉では説明できない」『書きあぐねている人のための小説入門』保坂和志

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保坂さんが語っているとおり、ある芸術を他の方法で説明することは不可能なのだ。

例えば、夏目漱石の『こころ』は、文字を始まりから終わりまで順序通り追っていくことでしか理解することはできない。

他の表現手段(音楽、絵、概念図、あらすじ)で説明したなら、その時点で『こころ』とは異なるものになってしまう。


ある芸術を他の形式で表現することはできない。

それでも誰かに好きな作品を紹介したいと思うのなら、あらすじやテクニカルな解説をするよりも、自分が読んでいて感情をどう動かされたか、行動がどう変わったか、ということを「とても素晴らしいんだよ!」という熱意をもって語ることが最も良い手段だろう。ただ、それでももどかしさを払拭することはできない。

若さゆえの過ち / 立花隆の言葉から

僕が21歳頃に読んだ、立花隆の言葉を紹介する。

「そういう経験を踏まえた上で、今からはっきりと予言できることは、君たちの相当部分が、これから数年以内に、人生最大の失敗をいくつかするだろうということです

『二十歳の君へ』東京大学立花隆ゼミ+立花隆

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 言葉どおり捉えてしまうと怖い予言だ。若さゆえの過ちとよく言うし、若者は失敗と隣合わせの存在だというのが世間一般の通説らしい。

僕自信、数年前に大きな失敗といえる経験をした。今はその過ちで逸れた道の軌道修正をしながら生きている毎日だといっても過言ではない。

なぜ立花氏は失敗を予言するのか、なぜ若者は失敗と隣合わせの危うい存在なのだろう

僕自信の失敗経験を踏まえて考えてみる。

 

若者、特に自分の一部の能力が他の人あるいはある仕事を達成するための基準よりも突出して高い場合、自分の能力を過信しやすい。若くしてそのような突出した能力をもつと、他の能力は一般の人よりも著しく低い場合だったとしても、自分は何でもやれるという”全能感”を覚えやすい。

図1は、ある挑戦に求められる能力に対して特定の能力は突出しているものの他の能力は必要条件を満たしていない様子を模式的に表している。

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図1:若者と挑戦の関係

求められるレベルに対してあるひとつの能力が超えているとき、若者が自分は「やれる!」と過信して挑戦してしまうことがある(特にその能力が華やかで他人の承認を得られやすいものである場合)。その過信した状態でリスクのある挑戦をしてしまうと、他の能力が一般の人よりも著しく不足しているために、しょうもない原因で失敗してしまう結末となる。

 

なぜ若者が無謀な挑戦をしやすいかというと、自分の得意な能力以外の能力がいわゆる「社会常識」に達していないために、自分と社会の関係を客観的にみることができないためだ。

多くの若者は実経験が浅く、本や教科書というメディアを媒介として社会を知っているだけ。また、限定的なコミュニティの中でしか生きてきていないため自分自身について理解できているとは言いがたい。

”社会”と”自分”を知らないと客観的な判断をすることは難しいだろう。だから無謀な挑戦に手を出してしまうのだ。

 

立花氏は、NHKの番組でこうも語っていた。

「個人でも仕事でも、いかにほかの人間を巻き込んで自分たちのやりたい方向に全体を持っていくか。それにこの後の人生の一番大事なことはつきると思う。 人をどうやって巻き込むか。熱意と言葉の力。言葉をより活かすためには熱意をもって語ることが必要。

これからいろんなことをやるんだろうけど、大体失敗します。思った通りになりません。それを覚悟してとにかく一生懸命やることを続けてもらいたいと思います」

ETV特集 立花隆 次世代へのメッセージ~わが原点の広島・長崎から~」

www.nhk.or.jp

この立花氏の言葉は、失敗と隣合わせの若者にとって希望だ。

社会常識もなく、いびつな能力パラメータであっても、他の人を巻き込み自分に足りない部分を補うことで成功することはできると語っているわけだ。

そして、他の人を巻き込むのに必要なのはコミュニケーション力なんていう抽象的なものではなく、熱意と言葉だと語っている。

若者よ、思いを伝えるのだ。熱意の醒めないうちに。仲間を巻き込み大きな熱塊となれば、失敗を恐れることはない。

 

 

キヨシローのスゴさ / 宝くじは買わない RCサクセション

先日、車を運転している時にRCサクセションの「宝くじは買わない」を聴いて、忌野清志郎さんがなぜあれほどまでに人々に支持されるようになったのかわかった気がしたので書き留めてみる。

 

”「宝くじは買わない」(たからくじはかわない)は、RCサクセションのデビューシングル。1970年3月5日発売。発売元は東芝音工。
作詞:忌野清志郎 、作曲:肝沢幅一” 宝くじは買わない - Wikipedia

 

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芸術作品を要約するなんて作品を壊してしまうようでおこがましいが、この曲の歌詞を一言で要約すると、

「僕は宝くじは買わない。だって僕にはお金で買えない恋人がいて、これ以上ないくらい幸せだから」

となる。

 

僕がこの曲のどこをすごいとおもったかというと、

「『愛はお金で買えない』という古来から人々が口にする言葉をもとに歌詞をつくり、お金がすべてという価値観への批判を含みながら、究極のラブソングでもあり、また軽快なリズムにのせて『今より幸せになれるはずがない』と断言してしまう純粋無垢で愛される歌い手をユーモラスに表出させている」

ところである。

 

宝くじを買う人、というのは夢をみて買っているわけで、けして生活費を稼ぐために買っているわけではない。宝くじを買う、という行為は、お金があれば幸せになれる、という価値観があることを前提としている。忌野清志郎はその本質を突き、お金がすべてという価値観への懐疑を提供している。

また同時に、「今より幸せになれるはずがない」と断言する歌い手をどこか喜劇っぽく描くことにより「愛はお金では買えない」という言葉への懐疑を示すことにも成功している。

そして、この曲を当時(60年代〜70年代)の若者の”舞台”であった四畳半のアパートの一室で恋人に向けて弾き語りをすればラブソングにもなるのである。

 

この曲はデビュー曲とは思えない程の完成度をもっており、短い歌詞の中に、その後活動を終えるまで褪せることのない忌野清志郎の魅力がすでにいっぱいにつまっている。

何気なく聴いていれば、ただのフォークソングに過ぎないが、よくきけば様々な思想をのせた驚くほど完成度の高い曲であることがわかる。

こんな歌詞を作ってしまう忌野清志郎はやはり天才である。

人工知能と製造業(インダストリー4.0に関するメモ)

ここ最近、人工知能に関する話題が増えている。ある経営者はこれからは人工知能の時代になると言っているし、テレビのバラエティ番組なんかでも扱われることが増えて、なんだかすごくホットなワードになっている。

自分は一応製造業に分類される職業についているので人工知能が産業に登場するとなると、製造業がどう変わるのかという点が気になってくる。日本の産業の中でモノづくりはとても重要な位置にあるし、人工知能のモノづくりへの影響を知っておくは、日本の将来を見通す上で役にも立つだろう。

人工知能と製造業をキーワードに検索すると、ドイツが政策として主導している「インダストリー4.0」が出てくる。

僕の会社でもドイツメーカの設備を導入したり、技術視察にいくことが多い。ちらっとドイツ製の設備をみた時、ドイツの技術は洗練されていて、発想、そして発想を創造する力がすごいなと思ったことを憶えている。日本と並ぶモノづくり大国、ドイツの例は見習うべきことが多いだろう。

そこで「インダストリー4.0」についてちょっと調べてみることにした。

※インターネットで一、二時間調べて、僕がなんとなく理解できたものを抽出して書いているだけなので、ここに書かれている情報を鵜呑みにすることはしないでください。

 

インダストリー4.0とは  (参考[1][3])

  • ドイツ連邦政府の研究開発の包括的な戦略である「ハイテク戦略2020」の中の「10のアクションプラン」のうちのひとつ。
  • 産官学一体となってプロジェクトを進めている。組織の垣根をこえてこのような大きなプロジェクトを進めること自体画期的である。
  • IOTで得られたデータをCPS(Cyber-Physical Systems)と呼ばれるシステムにより解析し、製造にフィードバックすることで「考える工場(スマートファクトリー)」の創造を目指す。
  • 考える工場により、多品種を大量生産する「マス・カスタマイゼーション」が実現する。

 

CPSに関しては、用語がよくわからないのでいまいち理解できていないが、

「IOTにより得られたビッグデータを解析し、資材調達・生産・流通含めて最適化をするシステム」

というふうに捉えている。

おそらく、このCPSというものが人工知能が担う主機能ということになるのだろう。

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【図解】コレ1枚でわかるサイバーフィジカル・システム:ITソリューション塾:オルタナティブ・ブログ

 

 

 

マス・カスタマイゼーションとは、文字通り「カスタムメイド製品を大量に生産する生産方式」だ。

フォードは、商品をT型フォードのみとし長期に渡り大量生産する「フォード型生産方式」(大量生産)で爆発的な売上を得た。トヨタは、多品種を低価格で生産する「トヨタ生産方式」により世界的メーカーとなった。トヨタ生産方式はライン生産を用いることで大量生産をおこなっているため、柔軟なカスタムメイドをしにくい。

マス・カスタマイゼーションでは、高度に共通化した部品を用いることで、個別のニーズに柔軟に対応し効率よく生産することができる。

 

なぜドイツはインダストリー4.0を進めているのか (参考[1][2])

  • ドイツでは就業人口の5割を製造業が占めており、製造業は基幹産業である。近年、世界の工場として技術力をつけている新興国に負けないためには、ドイツ製造業の国際的競争力を高めることが必要。その鍵が第四次産業革命をもたらすインダストリー4.0である。
  • ドイツでも少子高齢化が進んでおり、少ない労働人口で経済効果をあげることが必要。インダストリー4.0は「無人の工場」をつくるといわれているように、労働人口の減少に対応できる。
  • 人工知能による生産効率の最適化により省エネルギーを実現し、環境問題に対応する。

 

具体的にモノづくりはどうなる? (参考[4])

  • マス・カスタマイゼーションにより商品のバリエーションが増える。また、高度に共通化した部品の開発が進む。
  • 第三次産業革命は、マイクロエレクトロニクス(PC、FA、マシニングセンタetc)によって製造者がロボットに代替された。インダストリー4.0では、製造計画をたてる人、発注や受注を行う人も人工知能にとってかわられ、「無人の工場」となるといわれている。
  • 「無人の工場」により、製造業従事者の労働環境がかわる。

 

課題 (参考[1])

  • モノやサービスをインターネットでつなげるための通信方式の標準化。
  • 工場が外部のネットワークとつながることによるサイバー攻撃への対処。

 

 

夢物語を謳ったプロパガンダだとしても、ドイツは産官学連携で製造業に革命を起こすつもりになっているらしい。反面、日本政府は製造業をどうしていきたいのか、どんな政策をしているのか気になった。

現在、日本のロボット産業はおそらく世界一である。IT分野ではアメリカにプラットフォームをとられてしまったが、モノづくりにおいてもITとの連携が進む中、世界に遅れをとらないようにしたい。

産業構造は、技術の革新に伴い資本主義社会における消費者の本質的行動である”良い物を安く”のながれにのっとているのだなあと感じる。

人工知能の具体的な機能・役割がいまいちみえない。ニッポンのジレンマで話されていたように、今のロボットはエビの殻剥きですら人間のように作業することはできない。ディープラーニングによりそうした作業がロボットでもできるようになるのか、ということを知りたいと思った。

ネットや本の資料をよんでいると、インダストリー4.0による経済効果や華やかな技術に目がいきがちだが、本当に大事なのは人間の生活がどう変わるかだ。「スマートファクトリー」の実現により働く人が時間と場所に縛られずに働けるようになれば、創造的な生活を送る手助けとなる。僕は、そうした創造的な生活をの実現のために産業構造が進展していくことを期待する。

 

 

参考

[1]

www.newsdigest.de

[2]

マス・カスタマイゼーションとものづくりの未来 (2/4) | Telescope Magazine


[3]

www.sbbit.jp

 

[4] 第4の産業革命 森永卓郎 - YouTube

西野カナは天才か

去年、一昨年と紅白歌合戦をみていて気になったのが西野カナだ。一昨年は「Darling』」、去年は「トリセツ」を歌っていたが、二曲とも素晴らしい歌だと思った。他の紅白出場の若手歌手とくらべても特に新鮮な感動を覚えたのを記憶している。

しかし、西野カナの歌詞は、「出来合いのファーストフード」、「薄っぺらい」(西野カナ - Wikipedia)といった批判を受けており、作詞能力がないという否定的な意見をもつ人(アンチ)が多いことで有名だ。

僕は、紅白で披露した曲を観る限り決して作詞能力がないとは思えない。果たして西野カナの魅力とはなんなのか、そして本当に作詞能力がないといえるのか考えてみる。

 

マツコ・デラックス西野カナを批判している動画を観たことがある。マツコ・デラックスの発言に共感する人達が多いことから、彼女のアンチの意見は、ボキャブラリーの少なさ、ストレートな歌詞が幼稚、というものが主だと思われる。

以下の記事では、スピッツの「空も飛べるはず」と比較して、西野カナのオリジナリティーのなさを批判している。

www.machikado-creative.jp


たしかに、草野マサムネの書く歌詞は文学的で、彼のフィルターを通した言葉で語っているといえるだろう。

だが、草野マサムネの歌詞は、何度も聴いて歌詞カードをみて考えてみないと意味するところはわからない。反面、西野カナの歌詞は、一聴しただけで伝わる。

一聴しただけで理解できる歌詞を薄っぺらいということはできる。

しかし、彼女のリスナーである10代20代の若い女子は、そのような一聴しただけでは理解できない文学的な歌詞を必要としているだろうか?また、現代の情報過多の時代、何度も歌詞を聴いて考えるリスナーはどれだけいるだろう。

つまり、西野カナの歌詞は、マーケット層に適した歌詞だと言える。

 

彼女の歌詞は若い女子が共感する内容で溢れている。例えば、「トリセツ」をきいてみても、すべてのセンテンスは誰かが抱いたことがある感情をモチーフにしている。彼女は自らのマーケット層の感情を的確についた歌詞をかいているのだ。

西野カナは、草野マサムネのような圧倒的な才能をもった天才といった立場ではなく、どちらかというと代弁者という立場だ。なぜ代弁者を必要とするかというと、リスナーがうまく表現できない感情を、代弁者が表現することで、感情を発散させた気になるからだ。また、共感者を得たように感じ安心感を覚えることができる。

 

「トリセツ」は、自分の性格を取り扱い説明書にたとえ、彼氏・夫への愛を表現している。僕は以前NHKで、自閉症の娘をもつ父親が、娘の結婚相手や職場の同僚に娘の”扱い方”を書いた資料をつくっているという内容の番組をみたことがある。父親が自分の娘を卑下してそのような資料をつくっているわけでは決してなく、娘が社会で生きやすくなるために、愛をもって特徴を記しているわけだ。

僕はこの”扱い方・説明書”で自分の性格を表現する手法は、人とのコミュニケーション、特に恋人といった親密な相手に対してとても有効だと思った。

西野カナがこの番組をみて「トリセツ」の歌詞のテーマを思いついたかどうかわからない。しかし、「トリセツ」を聞いた時、西野カナはうまいことやるな!と感激した。彼女は、リスナーの心に響く歌詞をつくる努力をしていると感じた。

西野カナの歌詞はたしかに文学的・天才的なものではないかもしれない。だがリスナーの感情に響く歌詞をちゃんと書いている。そつなくリスナーが求めるものを提供しているという点で、彼女は作詞のプロといえるだろう。

 

最期に。

言葉は時代によってかわる。

よく年配の方たちが、若者言葉を揶揄して正しい言葉づかいじゃない!と怒る光景をみかける。

だが果たして正しい言葉遣いなどあるのだろうか。

年配の人達が正しい言葉遣いと言っているのは、彼らが生きた時代に習い、通用した言葉であって、正しい言葉というわけではない。古文が正しい日本語と言うひとはなかなかいないだろう。結局、若者言葉と年配の方がいう正しい言葉づかいの違いというのは、今つかわれているか昔つかわれていたかの違いにすぎない。

言葉はコミュニケーションのツールであって、コミュニケーションが成り立つのであれば、どんな言葉だろうがかまわないのだ。 

僕は、西野カナを新しい文芸表現の開拓者だと思っている。

単純でストレートな語彙をうまくストーリにのせることで、難しい言葉を用い回りくどく表現する他のアーティストよりも、聴衆の感情を揺さぶることに成功している。

彼女に対するアンチが多いのはそれだけ時代を先行しているからだと言える。

マツコ・デラックス西野カナ中島みゆきと比較して酷評したが、

僕は、西野カナ中島みゆきにひけをとらない、むしろ同じように才能ある気鋭の表現者だと思っている。

 

 

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人間の振れ幅

僕らが70年前の世界史を学ぶ時、まったく違う世界の出来事を学んでいるかのような感覚を抱く。

ナチスユダヤ人大虐殺、大日本帝国帝国主義拡張による無謀な戦争、植民地時代。
僕らの知っているおじいさんおばあさんが生きていた時代なのに、現代とまったく繋がっていない世界の歴史に思える。

僕らがそんな違和感を抱くのは、人間の振れ幅がそんなにも大きいからだろうか。それとも、歪曲された歴史観を習っているからだろうか。

人間は、環境によって何者にもなれるということを僕らは知っておかなくてはいけない。

 

 

「It's up to you!」 / タイの露天商が放った僕の課題を突いた言葉

f:id:akayari:20160211225248j:plain写真:チェンマイ名物カオソーイ

 

チェンマイのノスタルジックなサタデーナイトマーケットが懐かしい。

チェンマイの服売りのおばさんは、値引きを繰り返しながらも買うか買わないか迷い続ける優柔不断な僕をみて、「あなた次第なのよ!」と言い放った。

おばさんは、呆れたような、叱っているような言い方でその言葉を言った。

当時の僕の生き様を象徴する言葉にように感じて、ドキッとした。

露天商のおばさんは、物の売り買いというささいな行動だけで僕の性格と生き方を見ぬいたのだと思った。

大学4年で、二十歳の成人式を過ぎて二年が過ぎても、人生を自分で選ぶことができていない僕がいた。

当時、そんな優柔不断な生き方をしてきたツケがまわってきたように、つらいことが重なって起こっていた。

タイ旅行はつらい生活からの逃避行のようなものでもあった。

露天商のおばさんという思いがけない場所から、お叱りを受けることになったのだった。

人間は環境の変化に弱い。

今までと同じ職場で同じ仕事をしていたとしても、ささいな変化でまったく違う職場に感じる。変わった次の日は、まったく違う朝を迎える。それは悪夢とともに迎える朝であって、桃源郷の恍惚感とともに迎える朝がくることはめったにない。

人間は環境に適応し、適応したあとは恒常性を保ち続けようとする。環境が変化すると、ストレスを感じ、身体は大量のエネルギーを消費する。

変化が良い方向か悪い方向かは関係ない。変化の良し悪しは人間の理性が決めるからだ。職場に変化が起こる前と、変化後に適応し恒常性を保てるようになった後を比べた時、前より良くなったように感じる時があるだろう。しかし、人間の身体自体は変化の前と後でなんらかわりはないのだ。細胞が生まれ変わり、記憶が再構築されただけ。理性がなんらかの基準をもってして、前よりよくなったと判断しているのだ。

人間は環境の変化に弱い。恒常性を保てなくなる時、人間は弱る。いくら経験を積んでも耐性がつくことはない。まったく同じ変化を経験する場合にはストレスを感じることはないが、これは既にその変化自体が恒常性の一部になってしまっているからだ。
だが変化は進歩していくためのきっかけである。恒常性を獲得する闘いこそ、人間の歴史だったのだから。