【本の感想】暇と退屈の倫理学 / 退屈という疑問と戦う人の記録!
あとがきで國分功一郎さんが自分で書いているように、この本は著者である國分功一郎さんの、人生の疑問の一つに対する戦いの記録ともいえる大作だと感じた。
自分の人生をかけて極めてきたことを本にして表現したい、世に残したいと、人は思う。そして、実際に作者が人生をかけて追求してきたことを熱く語る本は面白い。
僕は過去にそういう本を何冊か読んできて、実際に面白いと感じてきた。たとえば、前野隆司さんの「脳はなぜ心を作ったのか」や、田中和明さんの「金属の基本がわかる事典」などなど。
「暇と退屈の倫理学」は、國分功一郎さんがずっと疑問を感じてきた「退屈」について、哲学者となり知識という武器をてにいれて正々堂々と考察した記録だ。加えて、哲学するという行動を読者にさらし、わかりやすく、読者自身が読みながら哲学をできるように書かれている。こんなにおもしろい読書体験をできる本はなかなかないと思う。
以下自分メモ
人間の不幸と快楽について
・人間の不幸は、部屋でじっとしていれば起きない。でもできないのは退屈するからだ。こんな人間は惨めである(パスカル)
・人は快楽を求めているのではなく、今日と昨日を区別してくれる事件(興奮)を求めている。
人間が退屈する理由
・ 400万年前に初期人類が出現してから1万年前のあいだまで、人類は遊動生活をしていた。しかし、氷河期が過ぎて中緯度が温帯森林環境になると、食料貯蓄が必要となり、定住生活を強いられるようになった。定住した人類は情報処理能力をもてあまし、退屈に悩まされるようになった。
ポストフォーディズム
・フォードは15年間同じモデルの車を売り続けた。一方ポストフォーディズム、現代の消費=生産スタイルは、いかなる製品も絶えざるモデルチェンジを強いられる。モデルチェンジが激しい場合、設備投資が難しいため、人間が生産を行う。また、どれだけ売れるかわからないのでフレキシブルな労働力が必要である。これがハケンを産んだ。
浪費がない資本主義社会
・ボードリヤールは消費とは観念論的行為と言った。消費では、モノは記号になる。消費は記号を受け取る行為だ。
・映画「ファイトクラブ」の主人公はブランド品を買い漁る。しかし彼は消費はしていても浪費をしていない。彼は記号をうけとらされている。
・現代人は終わりなき消費のゲームを続けている。しかも自分でそのサイクルを回している。現代人は本来性なき疎外状態にある。
・退屈の第一形式:思い通りにならない時間にひきとめられている(日常の仕事の奴隷になっているため、時間が惜しい)
・退屈の第二形式:気晴らしの中であらわれる退屈
・退屈の第三形式:なんとなく退屈(広域に放置された感覚。自由であるがゆえ)
・人間は第三形式から逃れるために第一形式に逃げ込む→消費社会
・人間であるとは、第二形式を生きることである。
結論
・読者自身が退屈との付き合い方を切り開く必要がある。
・浪費する。つまりものをものとしてうけとる。「人間であること」
・なにかにとりさらわれること。「動物になること」
・「人間であること」を楽しむことで「動物になること」を待ち構えることができる。