地図とコンパス

人はときに美しいと思える瞬間に出会うこともあります。人生の地図とコンパスをつくっていきましょう。

人は自分の見たいように現実を見る

 

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知人がそっけない態度をとった。

なにかしたかな?

一ヶ月前、馬鹿だなと言ったからかな?

LINEで既読スルーしたからかな?

僕が知人の行きたかった北海道に言ったことが

共通の知人を通してバレたのかな。

ああ、やはり知人は

北海道に行きたいわー

って嫌味っぽく言ってる

やっぱりそうなんだ。。。

 

人は自分が想像したとおりになるように現実の辻褄を合わせる。

特に、心配事は、タネが見えだすとどうしてか増幅させようとする。

人間はネガティブな想定をするようにできているんだろうか。

はっと、気づくことができれば、

なんだ全然関係なかったじゃん、てなる。

はっと、なれるうちは健常だ。

 

春秋に富む

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冬の終わりにも独特の空気がある。

暖かさに向けて少しの楽しみと、少しのさみしさ。

暖かいとこんなに体も気分も軽やかになるのかと驚く。

そういえば卒業の時期はこんな空気だったなと、情景がうかんで懐かしい気分になる。

 

今日、上司にこんななことを言われた。

「お前はあと三十年も働くのか。考えただけで気持ち悪くなるだろう」

なぜわざわざモチベーションをさげるようなことを言うのだろう。

僕はこういう年のとり方をしないために生きていく。

【世界はどうなっているのか】2−5 量子力学

僕らの世界がどうなっているのか知るためには、宇宙スケールの法則を調べるだけでは足りない。

光の速度の世界では、僕らの感覚の世界とはかなりちがってみえることはわかった。同じように、極小の世界をみてみると、常識とははなれたとんでもない世界が広がっていたのだ。

 

二重スリット実験。

初めてこの実験の話を聞いたとき、背筋がゾッとするような感覚になったのを覚えている。知ってはいけないことを知ってしまったような恐ろしさを感じた。

様々なところで語られているので、ここでは簡単に二重スリット実験について説明する。

2つのスリットの空いた板の向こうにスクリーンがおいてある。そのスリットに向かって電子銃で電子を投げつけてスリットを通してスクリーンに当てる。

 

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図1 二重スリット実験(二重スリット実験 - Wikipedia)

 

電子一個をなげてみる。

するとスクリーンには電子一個が検出された。

ということは電子は粒子なのだろう。

 

電子を一個ずつ大量になげつけてみる。

想定通り、スクリーンには電子が次々と検出される。

いや、まて。よくみるとスクリーンに検出された電子は模様になっている!

 

その模様は干渉縞と呼ばれるものだった。この干渉縞というのは、波が2つのスリットを通り抜けたときに重なり合ってでてくる模様だ。水面に2つの石を落としたときの波をイメージするといい。

波!?

一個の電子がどちらかのスリットを通っていったはずなのに、なぜ波がスリットをぬけたときの干渉縞が現れるのだ!?

 

ちなみに、2つのスリットのうちどちらのスリットを通ったのか観測できるようにしてしまうと、干渉縞はあらわれなくなる。

 

この実験には種明かしはない。

詳細は省かせもらうが、この実験からわかったことは、

①電子は粒子でもあり波でもある。

②一つの電子は2つのスリット両方を同時に通りぬけたように干渉をおこす。

ということ。

 

この実験では電子をあつかったが、他のとても小さい粒子や光でも同様の結果を得られる。このような粒子を量子とよぶ。

量子のようなとても小さい世界では、物質は粒子でもあり波でもあるのだ。

 

結果②が示すのは、粒子は観測するまでは確率のように存在しているということ。

スクリーンにぶつかったときのように観測したときは粒子としてどこかに現れるが、観測されていないときは、空間に確率の波として存在している。

 

その確率の波を求めるときにつかうのがシュレーディンガー方程式だ。

ニュートン運動方程式が物体の位置や速さを決定するように、量子の世界ではシュレーディンガー方程式が量子の位置や運動を決定する。しかし、シュレーディンガー方程式の解が示すのは波動関数という確率だ。

 

量子力学では不確定性原理という基本原理がある。

不確定性原理は、位置と運動量は同時に決定することはできない。というものだ。

これは、先に述べた量子の粒子と波動の二重性から数学的に導かれる。

 

不確定性原理だけ聞くと、「量子の位置と運動量はある時点でたしかに決まっているが、人間はそれを観測することはできないということか」と思う。

しかし、シュレーディンガー方程式は、「量子の位置と運動量はほんとうに決まっておらず、観測した瞬間に決定する」ということを示している。

この事実は、ぼくたちの世界観にものすごい影響を与える。

 

僕たちのからだも、建物も、どんどん細かく見ていけば、小さな粒子(量子)でできていることが科学的に示されている。ということは、量子の位置や運動量が確率のように表されるというのなら、僕たちのからだや建物も、確率で表現されるような存在だといえてしまうということだ。

このような考えで、シュレーディンガーの猫という思考実験や、多世界解釈などの解釈問題たちが発生していった。

アインシュタインは、「神はサイコロをふらない」といって世界の確率解釈を否定したことで有名だ。

量子力学から導かれる、世界はどうなっているのか、という解釈は、未だに議論される。人間にわかっているのは、シュレーディンガー方程式は、波動関数という、世界の現象を極めて正確に表す解を導き出すということ。波動関数はどんな世界を表しているのか、と考えることは哲学の領域に入る。本当に世界はなにもかも決定されていないのか、多世界が存在しているのか、そんなことは科学で実際に確かめることができないからだ。

そうはいっても、量子力学の有用性が長い間疑われないということは、波動関数は世界を正しく表しているということだろう。つまり、この世界は人間の常識で考えるよりはるかに奇妙で謎にみちているということだ。

 

参考文献

単位が取れる量子力学ノート (KS単位が取れるシリーズ)

哲学的な何か、あと科学とか

二重スリット実験 - Wikipedia

【世界はどうなっているのか】2−4 時空

移動すると時間・長さ・重さが変わるんだって!アンビリバボー!

 

特殊相対性理論は僕たちの常識からするとおとぎ話のようなことが実際におこっていると言って世界を驚かせた。

 

アインシュタインは飽き足らず、一般相対性理論という古典物理の金字塔を打ち立てた。

 

一般相対性理論をざっくり一言で言うと、

質量は、空間を歪めるよ!光も歪んだ空間に沿ってまがるよ!

という感じだ。

 

ニュートン力学では、万有引力の法則に2つの物体の質量を代入する。光のような質量のないものは引力が働かないと考えられていた。

 

アインシュタインは加速度のある系で光のふるまいを考えるために、加速度のある状態と重力のある状態は同じである(等価原理)ということを前提に考えた。

 

等価原理にしたがうと、落下するエレベーターにはいってきた光の道筋を考えたときに、光は重力加速度に従って落下するという結論がでてくる。

 

質量のない光が重力で落下するなんておかしいじゃないか!万有引力の式にあてはまらないぞ!

 

光は重力の「力」が働いて落下するわけじゃなかった。

 

重力は、電気力線のように、空間を歪めている。光は歪んだ空間に従って進んでいるだけなのだ。

光が曲がって進む、ということは、場所によって光の進む距離が違うことになる。光の速度は秒速30万キロメートルで一定なので、時間がゆっくり進む場所があることになるのだ。

 

世界に関する驚きの事実が明らかになった。

 

空間と時間は質量の作り出す重力(重力場)によって変化する。

 

僕らの生活のスケールでは長さも時間を変化するようにみえないが、宇宙のスケールでみると、たしかに、長さと時間は変化しているのだ。

3次元座標に変化する時間軸をいれた4次元世界を時空と呼ぶ。

 

光に近い速さで動く素粒子からみると、時間は伸びまくり、進行方向の空間は縮みまくっている。

太陽のような大きな星の近くでは、直線が曲がり時間はゆっくり進んでいる。

 

世界は時空だったのだ。

 

<参考文献>

まんがアトム博士の続相対性理論

ファインマン物理学〈1〉力学

EMANの物理学・相対性理論・結論から始めよう

http://eman-physics.net/relativity/from_conc.html

【世界はどうなっているのか】2−3 光の速さで走ったときのほんとうの世界

ニュートンの力学は世界をすべて記述したかにみえた。

しかし、常識はまたも覆されたのだった。

 

天才ときいてアインシュタインを思い浮かべる人は多いだろう。

天才は必然であるというように、アインシュタイン相対性理論を発表しなくても、相対性理論はかならず発見されただろうと言われる。しかしそれは一人の手によってかはわからない。アインシュタインは一人で常識を覆し一人でひとつの壮大な理論体系をつくりあげた。ゆえに天才と呼ぶ人が多い。

 

相対性理論theory of relativity)の「相対」はどういう意味なのか?

ニュートンの書いたプリンキピアという本に、絶対空間と絶対時間というのがでてくる。それら絶対空間と絶対時間が意味するのは、世界は絶対に動かない空間と、絶対に変わらない時間というものを想定することができて、位置と時間を正しく知ることができれば、いつでもどこでも運動をきじゅつするこができるよ!ということ。

勘のいい人ならここでお気づきだろう、相対性理論の相対とは、ニュートンの絶対に対する意味だ。つまり、位置と時間は絶対ではないということ。

ニュートンが唱えた絶対空間と絶対時間という思想は間違っていることが示されたのだ。

 

ニュートン力学にほころびをみつけるように、奇妙な発見があった。光の速度はいつ測っても秒速30万キロメートルで、世界でこれ以上速いものはないようだということ。

 

例えば、ニュートン力学では、宇宙船にブースターをどんどんつなげていけば、足し算するように速度はあがり、理論的には無限の速さの宇宙船をつくるころができる。

 

だから、地球の公転や自転をかんがえると、どんなときも光の速さが変わらないというのは、おかしなはなしなのだ。

 

アインシュタインがすごいのは、当時の常識にとらわれず、確かな現実から理論をつくりあげようとしたこと。

光の速さが一定ならば、それをもとにして時間、長さ、重さを考え直そうじゃないか!と考えたのだ。

 

速度一定にするためには、時間または長さは伸び縮みしなければいけない。光の速さを超えることはできないのならば、ニュートン運動方程式から、質量も変化している可能性がある。

 

アインシュタインはまず、相対的に運動する世界で考えてみた。相対的に運動する世界とは、例えば移動する二人の人間がすれちがったときにお互いがどうみえるかという話。

僕に向かって知人Aが光に近い速さで向かってきたとしよう。すると知人Aは縮んで見え、時計はゆっくりすすんでいるようにみえ、体重は普段よりおもくなっているようにみえる。反対に知人Aからみても僕は同じように縮んで見え、時計はゆっくりすすみ体重は増えてみえる。

このような相対運動する二人が光の速さですれ違ったときにおこる長さ・時間の伸び縮みは、光の速さが一定であると考えたときの簡単な三角関数から導き出される。

光の速度を超えることはできないという前提に立つと、ある宇宙船は、速度が早くなるにつれて、どれだけエネルギーを与えても加速していかない状態になる。ニュートンの第二法則(F=Ma)より、質量が増加していき、加速度が上がらないと考えた。これが、エネルギーが質量に変換されることを表す、有名なEmc2である。

 

これらの結論は、慣性の世界、つまり加速度のない状態で適用される。僕たちの世界はいつも重力という加速度がかかっているので、加速度のない状態=特殊だとして、以上の結論は特殊相対性理論と名付けられた。

特殊相対性理論が示したのは、私達がいつもおなじだと考えていた長さ・時間・質量は、見る立場によって自在に変化するものだということだ。だけど、僕たちの普段生活する世界では、その変化があまりにも小さいため、ほぼ気にする必要はない。

 

アインシュタイン特殊相対性理論の論文を発表したのは26歳の頃。その10年後に、加速度のある世界へと理論を拡張した一般相対性理論が発表される。

 

【参考】

アトム博士の相対性理論

https://www.amazon.co.jp/まんが・アトム博士の相対性理論/dp/488593141X

ファインマン物理学 力学編

https://www.amazon.co.jp/ファインマン物理学%E3%80%881〉力学-ファインマン/dp/4000077112

 

【世界はどうなっているのか】2−2 ニュートン力学

高校物理は嫌いだった?

僕は数学的になんとなく理解できたからよかったが、正直、いきなり等速直線運動とか慣性の法則がでてきて、なんのこっちゃさっぱりだったのを憶えている。

 

ニュートン力学の法則

慣性の法則

F=d/dt(mv)

③作用反作用の法則

 

ニュートンの運動の法則は、世界というのはなんとも単純な法則の上に成り立っているということを示した。

二次元上、つまり一直線に運動する物体を考てみる。

まず第一法則に従えば、加速度があるかないかによって運動を区別できる。逆に言えば、加速度のあるなしによってしか、物体の運動の種類を区別する必要はないという、シンプルな考え方だということ。静止していようが等速で動いていようが加速度がなければおなじだということ。

第二法則Fmaという式が示すのは、加速度のある系にしか力は働いていない、ということ。等速直線運動をしている物体は、動いているようにみえるのにとまっている物体とおなじように力を受けてはいないという、おどろくべきことを言っている。

第三法則によれば、物体は(重力を除けば)接しているものからしか影響をうけないということ。重力はすべての物体に働くので難しく判断する必要はないし、接する物体からしか働きを受けないというのはものすごくわかりやすい考え方だ。たくさんのボールが直線上にあったとしても、あるボールの隣りにあるボールのみをみればよいというすごく楽ちんな考え方だ。

 二次元上で考えるとき、向きは一方向しか考えなくて良く、第二法則と第三法則で、全ての運動を数式で記述できることになる。

 

ニュートンの運動法則は私達の身の回りにあるものだけでなく、地球や月などの惑星にも適用できた。ケプラーは惑星の運動にはわたしたちの日常とはちがう特殊な法則があると考えたが、ニュートンは、私達の身の回りと同じ法則によって動いていること(世界の一般法則があること)を示したのだ。

ニュートンの功績は、当時において「数学で世界を支配する法則を示した」という点にある。もはやこれ以上物理で新しい発見はないだろうという諦めすら生んだのだから凄まじい。

流体力学オイラーの法則やナビエ・ストークス方程式、熱力学の分子運動論も、おおざっぱにみると、ニュートンの法則を流体や熱に適用したものといえる。高度な数学技法を用いて解析力学というものができたが、これはニュートン力学の思想を他の方法で記述したものに過ぎない。

ニュートン古典力学の考え方は世界を網羅するかにみえた。

 

ちなみに蛇足だけど、ニュートンはかなりの変人としても知られている。変人だったときくとなんか和むのは僕だけだろうか。

【世界はどうなっているのか】 2−1.宇宙は数学で書かれている

ガリレオ・ガリレイは「宇宙は数学の言葉で書かれている」と言った。

数学で書かれている?そんなこと知ってるって?

中学校で物理を習う恵まれた僕らは、自然が数式で記述されることに馴染みがある。

しかし、ほんの数百年前までは、自然界で起こるさまざまなできごと、月が回る、物が動く、なんてことが数学なんていうもので掴み取れるなんて考えられていなかった。

雨を降らせるための儀式、生贄などに思い当たるように、自然をコントロールするためには宗教が必要だと信じられてきた。自然は神がつくりたもうたものであり、それを詳細に調査し、人間の理解できる言葉で記述しようなんて、できるわけがないと思われていた。

そして数学は、三角形や平行線の定義を記述するようなもので、数奇者の道楽、日常の役に立つ代物ではなかった。

数千年いや数万年もの長い間、人間は数学というもので自然を記述することができなかったのに、なぜガリレオは「宇宙は数学で書かれている」と言うことができたのか。

よく言われる、「天才は必然である」ということ。時代がガリレオを天才にした。新しい思想の潮流が地動説を生み出し、占星術師たちの積み重ねた数学技法が土台をつくった。時代がたまたまガリレオを選んだとはいっても、ガリレオが偉大なのは、当時の常識にとらわれなかったこと。かつて古代ギリシャがおこなったように、自らが実験を行ってたしかにわかることを主張しようとしたことだった。

 

かくして、古代ギリシャ以来、世界に目を向けることのなかった人類は、世界はどうなっているのか、という問いに挑戦し始めた。

 

 

【世界とは何か】1.世界は何で出来ているのか ー 1−2.素粒子

1−2.素粒子
 「世界は何でできているのか」という問いの答えとして、アラビア・ヨーロッパでは18世紀になるまでアリストテレス四元素説が信じられた。中国では四元素説とよく比較されることの多い五行説(木・火・土・金・水)が支持された。
 18世紀頃、ヨーロッパでは錬金術を元にする化学実験が盛んだった。錬金術が発展してくると、金や銀などのある種類の物質は他の物質からはどうがんばっても合成できないことがわかってくる。ボイルは、種類の異なる物質はそれぞれ異なる構成要素でできていると考え、元素の存在を予言した。質量保存の法則により元素の存在は支持され、ドルトンによって近代的な原子論が唱えられた。その後、原子は実験により次々と発見されていった。現在(2018年)、118種類の原子の存在が認められている。
 19世紀後半以降の電磁気学量子力学の確立は、原子は物質の最小単位ではないことを示した。ラザフォードは、金箔にアルファ粒子をぶつける実験を行うことで、原子の中にプラスの電荷をもつ原子核の存在を発見した。その後、原子は原子核と電子という内部構造をもち、原子核は陽子と中性子、陽子と中性子クォークでできている、といった具合に、物質の最小単位を求める研究は飛躍的に発展していった。
 現代では素粒子と呼ばれるものが最小の物質と考えられている。20世紀の物理学の飛躍的な発展の成果として、物理学の金字塔とも称される「標準理論」がつくられた。標準理論は素粒子を軸にして「世界は何で出来ているのか」、「どんな法則に支配されているのか」をまとめたものである。標準理論は、世界の根源を探る物理学者たちのロマンの結晶だといえる。
 標準理論は宇宙の真の姿を表す美しい理論なのに、日本のほとんどの人達は知らない。僕自身、自分で興味をもって調べてみて初めて素粒子論や量子力学を知った。高校までの義務教育では、運動方程式や運動エネルギーなどのニュートン古典力学までしか習わず、相対性理論量子力学素粒子論を教えてもらえないためだ。多感な青年時代に世界の真の姿を習うことができないのは残念な気がする。古典力学と相対論・量子論は、考え方が大きく違うので、素粒子論を理解することが余計に難しくなってしまっている。相対論や量子力学は次節で知ることにして、この節では素粒子論の概要を知ることにしよう。
 

 図1に、標準模型に含まれる17種類の素粒子の一覧を示す。素粒子の一番大きな分類はフェルミオンとボソンである。フェルミオンはおもに物質を形作る素粒子である。対してボソンは、電磁気力や重力などの場によって働く力のもとになるもの、つまるところ力の正体と考えればいい。フェルミオンとボソンはパウリの排他原理でも区別される。要するにフェルミオンは同じ場所に重ね合わせることができず、ボソンは重ね合わせることができる、という法則だ。フェルミオンが同じ場所に重ね合わせることができたらりんごのある場所にりんごを置くということができてしまうようなものなので、まあ、当たり前のことをいっているのだ。ちなみにパウリの排他原理は化学でも扱われており、「ひとつの電子軌道にはスピンの異なる二つの電子しか存在できない」という法則で使われている。
 

 

 

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図1 標準模型

 https://ja.wikipedia.org/wiki/素粒子

 

 フェルミオンクォークレプトンに分類される。クォークは陽子や中性子を構成するもので、レプトンは電子やニュートリノという単体で存在する粒子のことだ。クォークハドロンという複合粒子(陽子や中性子)を構成して存在している。実はクォーク単体で観察されたことはほとんどなく、ハドロンの観察結果からクォークの性質を推論している。単体で存在できないのは、「クォークの閉じ込め」と呼ばれる現象のせいだ。「強い力」を伝えるグルーオンというゲージ粒子クォーク同士をくっつけており、グルーオンを引き剥がそうとすると新たなハドロンが形成されるため、クォーク単体を取り出すことはできない。
 レプトンに含まれるニュートリノは、僕たちの空間を、1秒間に1平方センチメートルあたり660億個通り抜けている。こんなにあるのに気づかないのは、彼らが電荷をもたないからだ。電子は電荷をもつおかげで、反発しあい、物質を形作ることができるが、ニュートリノ電荷をもたないため物質をすり抜ける。レプトンは、クォークのように「強い力」でくっつけられることがない。
 クォークレプトンは、質量の大きさによって三世代にわけられている。第三世代から第一世代にいくにつれてクォークにとっては安定的な状態であるため、ほとんど第一世代しか存在しない。第二世代以降は加速器宇宙線などの高エネルギー状態でしか存在しない。

 物質を構成するフェルミオンに対して、ボソンは力を伝える粒子だ。ボソンはさらにゲージ粒子ヒッグス粒子に分類される。ゲージ粒子は、フェルミオンをくっつけて世界を形作る4つの力の元になるものだ。実は、世界には力は4つしかない。①電磁気力②重力③クォークをくっつけてハドロンをつくる力(強い力)④粒子の崩壊を促す力(弱い力)。僕たちの世界でものが動く原因は、小さく遡っていくと、この4つの力しかないのだ。そして、これらの力はすべてゲージ粒子という素粒子の交換がなされることにより生み出されている。「力」と「力を伝える素粒子」の関係を図2に示しておく。これら4つの力は、ゲージ理論という粒子が力を媒介するという考え方の理論において基本相互作用という名称で呼ばれている。
 ヒッグス粒子は、2012年に発見されたというニュースが記憶に新しい。ヒッグス粒子は、物質に質量を与える粒子として知られている。前述した4つの力のうち、弱い力は他の力に対して近くの対象しか届かない。この理由を説明するのに考え出されたのがヒッグス粒子だ。弱い力を運ぶウィークボソンヒッグス粒子にぶつかることで距離が短くなる。ぶつかるときのエネルギーが質量になるというわけだ。ヒッグス粒子は電子にも衝突するため、電子は質量をもつと考えられている。
 驚くことに、「世界は何でできているのか」という問いには、物質を構成するものだけでなく、「力」も入るのだ。力の正体が物質であると考えるのは、僕たちには理解しにくい。力を粒子の交換だと考えるためには「場」の考え方が必要になる。

 標準理論で扱う素粒子の世界は宇宙全体から観るとほんの一部(5%)にすぎないことがわかっている。僕たちは、「世界が何でできているか」という問いに科学的に答えを見出したかに見えたが、実際はまだまだわからないことだらけだということだ。

 この節では、「世界は何で出来ているのか」という問いに対して、世界の物質を構成する最小単位、というものを考えることで解答してきた。古代においては、物質の根源の探求は哲学の領域だった。二千年の時を経て物理学は発展し、科学的手法で素粒子という、物質の最小単位を発見した。結果、世界には物質を構成するものだけでなく、力を伝えるための粒子も存在することがわかった。となれば、世界を支配する法則について見ていくことが必要だろう。次節では、世界を支配する法則について知っていくことにしよう。

 

参考文献

https://ja.wikipedia.org/wiki/素粒子

http://www.sic.shibaura-it.ac.jp/~a-hatano/a-hatano/education-BC_files/基礎化学1原子論-.pdf
https://www.icepp.s.u-tokyo.ac.jp/elementaryparticle/index.html
https://wired.jp/2012/07/06/what-can-we-do-with-the-higgs-boson/

『宇宙は何でできているのか』村山斉著 

https://www.amazon.co.jp/宇宙は何でできているのか-幻冬舎新書-村山-斉/dp/434498188X

 

http://physics.blog.aerie.jp/entry/2014/12/03/000000

 

【世界とは何か】1.世界は何で出来ているのか ー 1−1.万物の根源をめぐる古代の戦い

 世界を理解するための方法の一つとして、「世界は一体何で出来ているのか」と考える方法ある。現代では小中学生でも、物質は百十数個の原子が分子をつくり、様々な物質になっているということを知っている。最近ではクオークニュートリノなんていう言葉もメジャーになってきたので素粒子論を知っている人も多い。だから、世界は共通の目には見えない小さな物質で出来上がっているのだ、という考え方はわりとすんなり受け入れてられているのではないだろうか。
 しかし、世界のあらゆる物質が肉眼ではみえないような共通の物質で成り立っているのではないか、という考え方は決してメジャーな考えではなかったようだ。たしかに、僕たちがいま目の前にあるコップをみて「これは『コップ』というひとつの物質ではなく、別のものでできているのだ」と考え、さらにまわりの景色をみて「机も箪笥も庭も木も、コップと同じ物質でできているのだ」と考えることはなんだかトンチンカンに思える。

 あらゆる物質は共通の最小単位で構成されていると考え始めた人は古代ギリシャの哲学者だといわれている。古代ギリシャ時代はとにかく有名な哲学者が多い。その理由は奴隷制のおかげで仕事や雑務に追われることなく思索に耽ることができたからだとよくいわれる。村上春樹はデビュー作『風の歌を聴け』でこんな文章を書いている。
”もしあなたが芸術や文学を求めているのならギリシャ人の書いたものを読めばいい。真の芸術が生み出されるためには奴隷制度が必要不可欠だからだ。古代ギリシャ人がそうであったように、奴隷が畑を耕し、食事を作り、船を漕ぎ、そしてその間に市民は地中海の太陽の下で詩作に耽り、数学に取り組む。芸術とはそういったものだ。夜中の3時に寝静まった台所の冷蔵庫を漁るような人間には、それだけの文章しか書くことはできない。そして、それが僕だ。”
奴隷制があるおかげで学問が発達するとするなら皮肉だ。これはある種のジレンマだと言えるだろう。奴隷制以外の理由として、イオニア地方など貿易の拠点となったところでは多くの異種文化と関わる機会があったため、それまでの価値観にとらわれない自由な考えをうむ風土が出来たというのがある。

 世界最古の哲学者といわれているタレスは、「万物は水である」と言った。それまでの人間の価値観は、例えばコップはコップという物質そのものであるとか、自然現象は神々の遊び、なんていう神話的な説明ばかりだった。タレスはそういった伝統的な神話の考え方に疑問を呈し、物質の共通項を探し、論理的にかつ全体を網羅する説明を考えた。アリストテレスは、このような哲学の基本となる論理的で全体志向の思考をもったのはタレスが最初だったとして、タレスを「世界最古の哲学者」と呼んだ。真理探求の哲学史タレスから始まったといわれる。
 しかし、万物は水だと考えるのはムリがあるだろ、とさすがに当時の人も思った。古代ギリシャではその後も「万物とは〜」をめぐる探求が行われた。哲学者らは万物の根源を「アルケー」と名付けた。万物の根源をめぐる探求は主にイオニア地方で行われたため、イオニア自然哲学と呼ばれる。以下の表に主な哲学者とアルケーを書きました。気になる方は各々調べてみてください。

哲学者

アルケー

タレス

アナクシマンドロス

アペイロン(限定を受けないもの)

ヘラクレイトス

(万物は流転する)

パルメニデス

(万物不変説)

デモクリトス

原子

ヘラクレイトス

エンペドクレス

火、水、土、空気

ピタゴラス

 

 「原子」を世界の最小単位と考えたのは古代ギリシャデモクリトスやレウキッポスだった。驚くことに、彼らの原子論は現代の原子論とよく似ていた。実際に原子の存在が科学的に考察されるようになったのは17世紀になってからだが、原子(Atom)の概念と語源はデモクリトスやレウキッポスの考えが元になっている。レウキッポスはデモクリトスの師匠にあたり、原子論を最初に提唱した。デモクリトスは師匠の考えを受け継ぎ体系を完成させた。
 デモクリトスの原子論は、ヘラクレイトスパルメニデスの考えをかけ合わせた理論だと考えるといい。ヘラクレイトスは「万物は流転する」と言った。ヘラクレイトスは、石が土になり、土が木になり、木がりんごになるといった観察から、万物はすべて変化するという共通点を見出したのだ。パルメニデスは、非存在から存在が生まれるのは矛盾だと考えた。りんごをどれだけ切り刻んでも小さくなったりんごになるだけだとして、万物不変説を唱えた。デモクリトスの原子論は、原子という最小単位が結合したり分離したりして世界は成り立っているという考えである。原子という存在を仮定することで非存在から存在が生まれるというパルメニデスの指摘に答えた。また、原子が「虚空」を飛び回っているとし、非存在を虚空という存在と考えた。このように、「変化しない原子」が、結合・分離することで「変化する」とし、ヘラクレイトスの万物流転とパルメニデスの万物不変を調停したのだ。デモクリトスは、人間も含めて世界のすべては原子の結合と分離によってなりたっているとし、「唯物史観」を唱えたことでも有名だ。

 

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 顕微鏡も加速器ももたない紀元前400年頃において既に、現在の原子とそっくりな原子論が唱えられていたのだ。しかし、当時は顕微鏡などあるはずもなく、19世紀になるまで原子の存在を確認されることはなかった。どちらかというとアリストテレスの4大元素(火・水・空気・木)という考え方が長らく支持されることになった。アリストテレスは、文字通り世界を制覇したアレキサンダー大王の家庭教師ということもあって絶大な影響力をもっていた。そのため、唱えた論が正しいか正しくないかあまり議論されることもないまま人々に受け入れられていったのだ。デモクリトスの原子論は二千年近く日の目をみることはなかった。

 

 

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参考文献

http://www.irohabook.com/arche

http://www.sic.shibaura-it.ac.jp/~a-hatano/a-hatano/education-BC_files/基礎化学1原子論-.pdf

http://matsuura05.exblog.jp/298279/

 

 

 

今週の発見、アイデア

スティーブ・ジョブズと舛岡富士雄は似たタイプの技術者。自分で実務はせず、方向性を示すことで仕事をする人。どちらも社内では嫌われ者。クラッシャー上司ともいえるかも。

・仕事ができる人の仕事のやり方にはいろんなタイプがある。普段何をやっているかわからないが核心をついた意見を出して方向性を示す人、締め切り間際に短期集中で結果を出す人、毎日規則正しく同じペースで仕事して長期的なプロジェクトで成果を出す人etc...。

・一万年前に人類が狩猟採集生活から定住生活に移行した出来事は農業革命と呼ばれ、その影響や原因には諸説ある。

・近視の原因が、近くのものを見続ける環境で生活することへの適応の結果(近業適応)だと仮定すると、近くのものを遠くに見せる遠視メガネ(凸レンズ)をかけて生活することで近視予防になるかも。

・たまたま通りかかった道で、ストリートミュージシャンがまさしく自分の過去の人生を表現した歌を歌ってくれていたらサプライズになるだろうなあ、とテレビで同様の企画をやっていたのをみて思った。

・近年のマインドフルネスやアドラー心理学の流行、労働環境改善の動きをみると、人々が幸せを感じながら暮らすための科学的な方法論(認知行動療法?個人心理学?)が確立され人々に浸透するのも遠くない未来だろうと感じる。

・成人式において騒ぐ若者が問題だと取り沙汰されるが、小学、中学時代の同級生と20歳で久しぶりに会ってきちんとしているなんてなかなかできることじゃないと思う。特に中学時代なんてスクールカーストやらいじめやらのおどろおどろしい人間関係が渦巻いていたわけだから、久しぶりにそんな時代の同級生と会ってまともな精神状態でいられるほど人間は強くないと思う。であれば、成人式で騒ぎ立てる若者を非難するなら、学校のシステムを批判するべきではないだろうか。

【本の感想】暇と退屈の倫理学 /  退屈という疑問と戦う人の記録!

あとがきで國分功一郎さんが自分で書いているように、この本は著者である國分功一郎さんの、人生の疑問の一つに対する戦いの記録ともいえる大作だと感じた。

 

自分の人生をかけて極めてきたことを本にして表現したい、世に残したいと、人は思う。そして、実際に作者が人生をかけて追求してきたことを熱く語る本は面白い。

僕は過去にそういう本を何冊か読んできて、実際に面白いと感じてきた。たとえば、前野隆司さんの「脳はなぜ心を作ったのか」や、田中和明さんの「金属の基本がわかる事典」などなど。

 

「暇と退屈の倫理学」は、國分功一郎さんがずっと疑問を感じてきた「退屈」について、哲学者となり知識という武器をてにいれて正々堂々と考察した記録だ。加えて、哲学するという行動を読者にさらし、わかりやすく、読者自身が読みながら哲学をできるように書かれている。こんなにおもしろい読書体験をできる本はなかなかないと思う。

 

 以下自分メモ

 

人間の不幸と快楽について

・人間の不幸は、部屋でじっとしていれば起きない。でもできないのは退屈するからだ。こんな人間は惨めである(パスカル

・人は快楽を求めているのではなく、今日と昨日を区別してくれる事件(興奮)を求めている。

 

人間が退屈する理由

・ 400万年前に初期人類が出現してから1万年前のあいだまで、人類は遊動生活をしていた。しかし、氷河期が過ぎて中緯度が温帯森林環境になると、食料貯蓄が必要となり、定住生活を強いられるようになった。定住した人類は情報処理能力をもてあまし、退屈に悩まされるようになった。

 

ポストフォーディズム

・フォードは15年間同じモデルの車を売り続けた。一方ポストフォーディズム、現代の消費=生産スタイルは、いかなる製品も絶えざるモデルチェンジを強いられる。モデルチェンジが激しい場合、設備投資が難しいため、人間が生産を行う。また、どれだけ売れるかわからないのでフレキシブルな労働力が必要である。これがハケンを産んだ。

 

浪費がない資本主義社会

ボードリヤールは消費とは観念論的行為と言った。消費では、モノは記号になる。消費は記号を受け取る行為だ。

・映画「ファイトクラブ」の主人公はブランド品を買い漁る。しかし彼は消費はしていても浪費をしていない。彼は記号をうけとらされている。

・現代人は終わりなき消費のゲームを続けている。しかも自分でそのサイクルを回している。現代人は本来性なき疎外状態にある。

 

ハイデッガーの「形而上学の根本諸概念」

・退屈の第一形式:思い通りにならない時間にひきとめられている(日常の仕事の奴隷になっているため、時間が惜しい)

・退屈の第二形式:気晴らしの中であらわれる退屈

・退屈の第三形式:なんとなく退屈(広域に放置された感覚。自由であるがゆえ)

・人間は第三形式から逃れるために第一形式に逃げ込む→消費社会

・人間であるとは、第二形式を生きることである。

 

結論

・読者自身が退屈との付き合い方を切り開く必要がある。

・浪費する。つまりものをものとしてうけとる。「人間であること」

・なにかにとりさらわれること。「動物になること」

・「人間であること」を楽しむことで「動物になること」を待ち構えることができる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

生きる意味とは何か?という問いに対する答えをまとめてみる

 

人間の生きる意味って何?という問いは誰もが抱くでしょう。

古今東西、数多の哲学者、思想家がこの問いに答えようとしてきました。

しかし、この問いの答えは未だに議論され続けています。

 

僕も、自分に生きる意味があるのか?という疑問は幼い頃からずっと抱いてきました。

学生時代は、書物の中に答えがあるのではないかと、それなりに書物を読んできました。

若い頃は、この問いに答えなければ、この先生きていくことなんてできない!と考えるほどの危機感をもってしまっていました。青年期特有のはりつめた不安です。

ある程度歳をとってくると、このような哲学的な問いを、それほど深刻にならずに肩の力を抜いて考えることができるようになってきました。

そこで改めて、生きる意味とは何か?という問いに対する答えを考えてみたいと思います。

まずは世間でよく言われる回答を簡単にまとめてみました。まだまだ今後詰めていく予定です。

もっと網羅的に系統的に(いわゆるMECEに)整理したいので、ご意見があれば遠慮なくお願いします。

 

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【本の紹介】コンビニ人間 / 村田沙耶香

最近、村田さんの著作にハマっている。

とても読みやすいナチュラルな文体、社会に違和感を抱く主人公。そしてクレイジー。

今まで、最近の作家さんの本は敬遠して読んでこなかったが、ちゃんと現代の日本文学は面白いんだな、というのがわかってよかった。

 

コンビニ人間」。

村田さんは太宰治著の「人間失格」に影響を受けてこの本を書いているんだろうなと感じた。だから、「人間失格」にドンピシャで影響を受けた僕にとって、「コンビニ人間」が面白くないはずがない。

 

主人公は発達障害だ、と言っている書評をみかけた。僕は、この本を障害者が主人公の本なんだという先入観をもって読むのはよくないと思う。世間が「普通」と呼んでいることに主人公が疑問をもつ理由を、主人公が障害者だからという点に求めるのは浅はかだ。

みんながそうしているから、それが常識だから、という価値観で多数派が少数派を排除する構造は差別の始まりだ。「普通」に疑問をもって、異質にも共感できる客観的な視点をもつことは、社会を住みやすい場所にするためにはとても重要な事だ。この本は、社会には、客観性をもたず、知らず知らずのうちに少数派という理由で異質を排除しようとする人間があまりにも多いことを訴えている。

 

僕がこのような社会への違和感を抱えてしまう人の生きづらさを描いた本を読んで思うのは、本を読んだ人が「普通」の普通でなさ、に気づき、他者にもっと寛容になってくれたらいいのにということだ。だから、主人公は発達障害サイコパスという設定だからこんなヘンテコなストーリーなんだという先入観をもって読んでほしくないのだ。主人公、「古倉恵子」はどこにでもいる、だれにでもいる。白羽はただのクズ人間ではなく、確かに彼の論理は正しいのだ。そう思ってみんなが読んでくれたら社会はもう少し寛容になれるはずだ。

 

コンビニ人間

 

【本の紹介】9プリンシプルズ / 伊藤穰一 ジェフ・ハウ

伊藤穰一さんの書いた本格的著作ということで読んでみた。伊藤さんは、学位をもたずしてMITメディアラボの所長になったという異色の経歴の持ち主だ。茂木健一郎さんは、伊藤さんを天才と呼んでいた。僕は伊藤さんには以前から注目していたので、本を読んでみることにしたのだ。

 

読んだ感想としては、非常に示唆にとんでいてウィットな表現が散りばめられた本だった。「はじめに」でも書かれているように、「9つの原理」全体を通して主張の根底にあるのは 非対称性 複雑性 不確実性の3つだ。

 

伊藤さんのブログには何度か訪れたことがあるが、正直いって読みやすい文章を書く人ではないという印象だった。ブログはもともと英語でかかれていてそれを本人または他の人が翻訳しているようだ。思考と専門用語についていけないというのもあると思うがあまり一般人にわかりやすい文章を書くタイプのひとではなさそうだなとは思っていた。

 

しかしこの本は以外に読みやすい。ITの知識がないと難しい部分はあるが、主張と根拠がまとまっているので理解し易いと感じた。文章の雰囲気としてはドーキンスの「利己的な遺伝子」のよう。知的なウィットに富んでいる。

 

9つの原理の根拠に一貫しているのは非対称性 複雑性 不確実性の3つだ。アリは、個別では単純な行動原理で動いているのに集団になると知的な生物のように振る舞う。アリに喩えられるように、インターネットが発達して個人が容易に情報をやり取りできるようになった現代では、技術革新は一部の天才ではなく、複雑性(カオス)からもたらされる。汎用人工知能(強いAI)が有名大学の研究室や大企業ではなく、学生寮の一室で密かに生み出される可能性もあるということだ。このようにどこで何が起こってもおかしくない現代では、固定観念にとらわれることのない柔軟性をもつことが重要だと書かれている。

 

この本に書かれている内容は非常に重要な示唆に富んでいるものの、話が大きすぎて実際に自分に活かせる部分は少ないと感じる。だが、自分にできることが少なくてもこの世界の加速度を減少させることにはつながらないことに気付く。私たち個人の数メートルの範囲内で起こるささいな出来事が複雑性を生み出し、全体を加速させていくから。

 

9プリンシプルズ 加速する未来で勝ち残るために (早川書房)

 

トニー・スタークに学ぶモテる男

いまだに悩む。どうすれば女の子とスマートに付き合えるようになるのかと。

女性と接する時に、ぎこちなさとか嘘をついているような感じを感じることがある。付き合っていない女性でも、付き合っている女性でも感じる。何をどう言っても、どう行動しても払拭できない。女の子と接する時の、このなんか違う感を克服しない限りはモテる男にはなれないのだろうなとはうすうす思っている。

このことで悩んでいる時に、たまたまテレビで放送されていた「アイアンマン」をみて、トニー・スタークのある台詞に、悩みを払拭する鍵をみつけた気がした。

"You know, if I were Iron Man, I'd have
this girlfriend who knew my true identity.
She'd be a wreck, 'cause she'd always
be worrying that I was going to die,
yet so proud of the man I'd become.
She'd be wildly conflicted,
which would only make her more
crazy about me."

http://www.script-o-rama.com/movie_scripts/a2/iron-man-script-transcript.html

 自分翻訳

「もし僕がアイアンマンだったら、その恋人は僕の正体をアイアンマンだと知っていることになる。彼女は気が落ち着かないだろう。だって恋人がいつ死ぬかもわからないんだから。だけど同時に、世界のために戦う彼が誇らしくもある。その狭間で彼女は悩み、どんどん彼女は僕にのめりこんでいく」

 

この台詞は、トニー・スタークの秘書(兼恋人?)である、ペッパー・ポッツの前でいわれる。

ポイントは次の点だ。

・自分の恋人が抱えるであろう悩みをユーモアを交えながらも正直に言うことで恋人の悩みを理解してあげようとしている。

・ペッパーに対して自分は恋人だと言っている。

トニー・スタークは隠そうとしていない。恋人とのネガティブな行末を。

冴えない男だったら、恋人が抱えるであろう悩みを隠そうとするかもしれない。現実に目を向けず、やさしい言葉を言ってその言葉だけで彼女の気を紛らわそうとするだろう。

トニー・スタークは状況を的確に把握して、恋人に嘘をついていないのだ。

また、ジョークっぽく言うことで、場を重くさせていない。嘘をつかずに的確に状況を恋人に伝えたとしても、ユーモアがなかったら気を滅入らせてしまうだけだ。

ペッパーとは公認の恋人どうしではないが(多分)、当たり前のように自分たちは付き合っているという前提にすることで、彼女への思いを伝えている。

そしてなによりも、この台詞を言うトニー・スタークは格好いい

自分の恋人は自分のせいでconflictするだろうなんて、当の恋人の前でなかなか言えない。

この台詞のおかげでペッパーはどれだけトニーへの不信感と不安を拭うことができただろう。

 

以上のようにポイントはいろいろあるだろうが、大事なことは、センスある言葉は男をスマートにみせる、ということだ。

針の穴を通すような絶妙な言葉が、女性と接する時のぎこちなさや嘘をついている感を払拭してくれる。正直に伝えることで、女性の男に対して抱く不信感や不安を拭い去ってくれる。正直なだけではだめで、場を壊さないためのユーモアも必要だ。トニー・スタークのようにはなれなくても、大事なことは考え抜いてセンス良く伝えることができれば、女性とスマートに接することができるのではないだろうか。