地図とコンパス

人はときに美しいと思える瞬間に出会うこともあります。人生の地図とコンパスをつくっていきましょう。

若さゆえの過ち / 立花隆の言葉から

僕が21歳頃に読んだ、立花隆の言葉を紹介する。

「そういう経験を踏まえた上で、今からはっきりと予言できることは、君たちの相当部分が、これから数年以内に、人生最大の失敗をいくつかするだろうということです

『二十歳の君へ』東京大学立花隆ゼミ+立花隆

www.amazon.co.jp

 言葉どおり捉えてしまうと怖い予言だ。若さゆえの過ちとよく言うし、若者は失敗と隣合わせの存在だというのが世間一般の通説らしい。

僕自信、数年前に大きな失敗といえる経験をした。今はその過ちで逸れた道の軌道修正をしながら生きている毎日だといっても過言ではない。

なぜ立花氏は失敗を予言するのか、なぜ若者は失敗と隣合わせの危うい存在なのだろう

僕自信の失敗経験を踏まえて考えてみる。

 

若者、特に自分の一部の能力が他の人あるいはある仕事を達成するための基準よりも突出して高い場合、自分の能力を過信しやすい。若くしてそのような突出した能力をもつと、他の能力は一般の人よりも著しく低い場合だったとしても、自分は何でもやれるという”全能感”を覚えやすい。

図1は、ある挑戦に求められる能力に対して特定の能力は突出しているものの他の能力は必要条件を満たしていない様子を模式的に表している。

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図1:若者と挑戦の関係

求められるレベルに対してあるひとつの能力が超えているとき、若者が自分は「やれる!」と過信して挑戦してしまうことがある(特にその能力が華やかで他人の承認を得られやすいものである場合)。その過信した状態でリスクのある挑戦をしてしまうと、他の能力が一般の人よりも著しく不足しているために、しょうもない原因で失敗してしまう結末となる。

 

なぜ若者が無謀な挑戦をしやすいかというと、自分の得意な能力以外の能力がいわゆる「社会常識」に達していないために、自分と社会の関係を客観的にみることができないためだ。

多くの若者は実経験が浅く、本や教科書というメディアを媒介として社会を知っているだけ。また、限定的なコミュニティの中でしか生きてきていないため自分自身について理解できているとは言いがたい。

”社会”と”自分”を知らないと客観的な判断をすることは難しいだろう。だから無謀な挑戦に手を出してしまうのだ。

 

立花氏は、NHKの番組でこうも語っていた。

「個人でも仕事でも、いかにほかの人間を巻き込んで自分たちのやりたい方向に全体を持っていくか。それにこの後の人生の一番大事なことはつきると思う。 人をどうやって巻き込むか。熱意と言葉の力。言葉をより活かすためには熱意をもって語ることが必要。

これからいろんなことをやるんだろうけど、大体失敗します。思った通りになりません。それを覚悟してとにかく一生懸命やることを続けてもらいたいと思います」

ETV特集 立花隆 次世代へのメッセージ~わが原点の広島・長崎から~」

www.nhk.or.jp

この立花氏の言葉は、失敗と隣合わせの若者にとって希望だ。

社会常識もなく、いびつな能力パラメータであっても、他の人を巻き込み自分に足りない部分を補うことで成功することはできると語っているわけだ。

そして、他の人を巻き込むのに必要なのはコミュニケーション力なんていう抽象的なものではなく、熱意と言葉だと語っている。

若者よ、思いを伝えるのだ。熱意の醒めないうちに。仲間を巻き込み大きな熱塊となれば、失敗を恐れることはない。

 

 

キヨシローのスゴさ / 宝くじは買わない RCサクセション

先日、車を運転している時にRCサクセションの「宝くじは買わない」を聴いて、忌野清志郎さんがなぜあれほどまでに人々に支持されるようになったのかわかった気がしたので書き留めてみる。

 

”「宝くじは買わない」(たからくじはかわない)は、RCサクセションのデビューシングル。1970年3月5日発売。発売元は東芝音工。
作詞:忌野清志郎 、作曲:肝沢幅一” 宝くじは買わない - Wikipedia

 

www.youtube.com


芸術作品を要約するなんて作品を壊してしまうようでおこがましいが、この曲の歌詞を一言で要約すると、

「僕は宝くじは買わない。だって僕にはお金で買えない恋人がいて、これ以上ないくらい幸せだから」

となる。

 

僕がこの曲のどこをすごいとおもったかというと、

「『愛はお金で買えない』という古来から人々が口にする言葉をもとに歌詞をつくり、お金がすべてという価値観への批判を含みながら、究極のラブソングでもあり、また軽快なリズムにのせて『今より幸せになれるはずがない』と断言してしまう純粋無垢で愛される歌い手をユーモラスに表出させている」

ところである。

 

宝くじを買う人、というのは夢をみて買っているわけで、けして生活費を稼ぐために買っているわけではない。宝くじを買う、という行為は、お金があれば幸せになれる、という価値観があることを前提としている。忌野清志郎はその本質を突き、お金がすべてという価値観への懐疑を提供している。

また同時に、「今より幸せになれるはずがない」と断言する歌い手をどこか喜劇っぽく描くことにより「愛はお金では買えない」という言葉への懐疑を示すことにも成功している。

そして、この曲を当時(60年代〜70年代)の若者の”舞台”であった四畳半のアパートの一室で恋人に向けて弾き語りをすればラブソングにもなるのである。

 

この曲はデビュー曲とは思えない程の完成度をもっており、短い歌詞の中に、その後活動を終えるまで褪せることのない忌野清志郎の魅力がすでにいっぱいにつまっている。

何気なく聴いていれば、ただのフォークソングに過ぎないが、よくきけば様々な思想をのせた驚くほど完成度の高い曲であることがわかる。

こんな歌詞を作ってしまう忌野清志郎はやはり天才である。

人工知能と製造業(インダストリー4.0に関するメモ)

ここ最近、人工知能に関する話題が増えている。ある経営者はこれからは人工知能の時代になると言っているし、テレビのバラエティ番組なんかでも扱われることが増えて、なんだかすごくホットなワードになっている。

自分は一応製造業に分類される職業についているので人工知能が産業に登場するとなると、製造業がどう変わるのかという点が気になってくる。日本の産業の中でモノづくりはとても重要な位置にあるし、人工知能のモノづくりへの影響を知っておくは、日本の将来を見通す上で役にも立つだろう。

人工知能と製造業をキーワードに検索すると、ドイツが政策として主導している「インダストリー4.0」が出てくる。

僕の会社でもドイツメーカの設備を導入したり、技術視察にいくことが多い。ちらっとドイツ製の設備をみた時、ドイツの技術は洗練されていて、発想、そして発想を創造する力がすごいなと思ったことを憶えている。日本と並ぶモノづくり大国、ドイツの例は見習うべきことが多いだろう。

そこで「インダストリー4.0」についてちょっと調べてみることにした。

※インターネットで一、二時間調べて、僕がなんとなく理解できたものを抽出して書いているだけなので、ここに書かれている情報を鵜呑みにすることはしないでください。

 

インダストリー4.0とは  (参考[1][3])

  • ドイツ連邦政府の研究開発の包括的な戦略である「ハイテク戦略2020」の中の「10のアクションプラン」のうちのひとつ。
  • 産官学一体となってプロジェクトを進めている。組織の垣根をこえてこのような大きなプロジェクトを進めること自体画期的である。
  • IOTで得られたデータをCPS(Cyber-Physical Systems)と呼ばれるシステムにより解析し、製造にフィードバックすることで「考える工場(スマートファクトリー)」の創造を目指す。
  • 考える工場により、多品種を大量生産する「マス・カスタマイゼーション」が実現する。

 

CPSに関しては、用語がよくわからないのでいまいち理解できていないが、

「IOTにより得られたビッグデータを解析し、資材調達・生産・流通含めて最適化をするシステム」

というふうに捉えている。

おそらく、このCPSというものが人工知能が担う主機能ということになるのだろう。

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【図解】コレ1枚でわかるサイバーフィジカル・システム:ITソリューション塾:オルタナティブ・ブログ

 

 

 

マス・カスタマイゼーションとは、文字通り「カスタムメイド製品を大量に生産する生産方式」だ。

フォードは、商品をT型フォードのみとし長期に渡り大量生産する「フォード型生産方式」(大量生産)で爆発的な売上を得た。トヨタは、多品種を低価格で生産する「トヨタ生産方式」により世界的メーカーとなった。トヨタ生産方式はライン生産を用いることで大量生産をおこなっているため、柔軟なカスタムメイドをしにくい。

マス・カスタマイゼーションでは、高度に共通化した部品を用いることで、個別のニーズに柔軟に対応し効率よく生産することができる。

 

なぜドイツはインダストリー4.0を進めているのか (参考[1][2])

  • ドイツでは就業人口の5割を製造業が占めており、製造業は基幹産業である。近年、世界の工場として技術力をつけている新興国に負けないためには、ドイツ製造業の国際的競争力を高めることが必要。その鍵が第四次産業革命をもたらすインダストリー4.0である。
  • ドイツでも少子高齢化が進んでおり、少ない労働人口で経済効果をあげることが必要。インダストリー4.0は「無人の工場」をつくるといわれているように、労働人口の減少に対応できる。
  • 人工知能による生産効率の最適化により省エネルギーを実現し、環境問題に対応する。

 

具体的にモノづくりはどうなる? (参考[4])

  • マス・カスタマイゼーションにより商品のバリエーションが増える。また、高度に共通化した部品の開発が進む。
  • 第三次産業革命は、マイクロエレクトロニクス(PC、FA、マシニングセンタetc)によって製造者がロボットに代替された。インダストリー4.0では、製造計画をたてる人、発注や受注を行う人も人工知能にとってかわられ、「無人の工場」となるといわれている。
  • 「無人の工場」により、製造業従事者の労働環境がかわる。

 

課題 (参考[1])

  • モノやサービスをインターネットでつなげるための通信方式の標準化。
  • 工場が外部のネットワークとつながることによるサイバー攻撃への対処。

 

 

夢物語を謳ったプロパガンダだとしても、ドイツは産官学連携で製造業に革命を起こすつもりになっているらしい。反面、日本政府は製造業をどうしていきたいのか、どんな政策をしているのか気になった。

現在、日本のロボット産業はおそらく世界一である。IT分野ではアメリカにプラットフォームをとられてしまったが、モノづくりにおいてもITとの連携が進む中、世界に遅れをとらないようにしたい。

産業構造は、技術の革新に伴い資本主義社会における消費者の本質的行動である”良い物を安く”のながれにのっとているのだなあと感じる。

人工知能の具体的な機能・役割がいまいちみえない。ニッポンのジレンマで話されていたように、今のロボットはエビの殻剥きですら人間のように作業することはできない。ディープラーニングによりそうした作業がロボットでもできるようになるのか、ということを知りたいと思った。

ネットや本の資料をよんでいると、インダストリー4.0による経済効果や華やかな技術に目がいきがちだが、本当に大事なのは人間の生活がどう変わるかだ。「スマートファクトリー」の実現により働く人が時間と場所に縛られずに働けるようになれば、創造的な生活を送る手助けとなる。僕は、そうした創造的な生活をの実現のために産業構造が進展していくことを期待する。

 

 

参考

[1]

www.newsdigest.de

[2]

マス・カスタマイゼーションとものづくりの未来 (2/4) | Telescope Magazine


[3]

www.sbbit.jp

 

[4] 第4の産業革命 森永卓郎 - YouTube

西野カナは天才か

去年、一昨年と紅白歌合戦をみていて気になったのが西野カナだ。一昨年は「Darling』」、去年は「トリセツ」を歌っていたが、二曲とも素晴らしい歌だと思った。他の紅白出場の若手歌手とくらべても特に新鮮な感動を覚えたのを記憶している。

しかし、西野カナの歌詞は、「出来合いのファーストフード」、「薄っぺらい」(西野カナ - Wikipedia)といった批判を受けており、作詞能力がないという否定的な意見をもつ人(アンチ)が多いことで有名だ。

僕は、紅白で披露した曲を観る限り決して作詞能力がないとは思えない。果たして西野カナの魅力とはなんなのか、そして本当に作詞能力がないといえるのか考えてみる。

 

マツコ・デラックス西野カナを批判している動画を観たことがある。マツコ・デラックスの発言に共感する人達が多いことから、彼女のアンチの意見は、ボキャブラリーの少なさ、ストレートな歌詞が幼稚、というものが主だと思われる。

以下の記事では、スピッツの「空も飛べるはず」と比較して、西野カナのオリジナリティーのなさを批判している。

www.machikado-creative.jp


たしかに、草野マサムネの書く歌詞は文学的で、彼のフィルターを通した言葉で語っているといえるだろう。

だが、草野マサムネの歌詞は、何度も聴いて歌詞カードをみて考えてみないと意味するところはわからない。反面、西野カナの歌詞は、一聴しただけで伝わる。

一聴しただけで理解できる歌詞を薄っぺらいということはできる。

しかし、彼女のリスナーである10代20代の若い女子は、そのような一聴しただけでは理解できない文学的な歌詞を必要としているだろうか?また、現代の情報過多の時代、何度も歌詞を聴いて考えるリスナーはどれだけいるだろう。

つまり、西野カナの歌詞は、マーケット層に適した歌詞だと言える。

 

彼女の歌詞は若い女子が共感する内容で溢れている。例えば、「トリセツ」をきいてみても、すべてのセンテンスは誰かが抱いたことがある感情をモチーフにしている。彼女は自らのマーケット層の感情を的確についた歌詞をかいているのだ。

西野カナは、草野マサムネのような圧倒的な才能をもった天才といった立場ではなく、どちらかというと代弁者という立場だ。なぜ代弁者を必要とするかというと、リスナーがうまく表現できない感情を、代弁者が表現することで、感情を発散させた気になるからだ。また、共感者を得たように感じ安心感を覚えることができる。

 

「トリセツ」は、自分の性格を取り扱い説明書にたとえ、彼氏・夫への愛を表現している。僕は以前NHKで、自閉症の娘をもつ父親が、娘の結婚相手や職場の同僚に娘の”扱い方”を書いた資料をつくっているという内容の番組をみたことがある。父親が自分の娘を卑下してそのような資料をつくっているわけでは決してなく、娘が社会で生きやすくなるために、愛をもって特徴を記しているわけだ。

僕はこの”扱い方・説明書”で自分の性格を表現する手法は、人とのコミュニケーション、特に恋人といった親密な相手に対してとても有効だと思った。

西野カナがこの番組をみて「トリセツ」の歌詞のテーマを思いついたかどうかわからない。しかし、「トリセツ」を聞いた時、西野カナはうまいことやるな!と感激した。彼女は、リスナーの心に響く歌詞をつくる努力をしていると感じた。

西野カナの歌詞はたしかに文学的・天才的なものではないかもしれない。だがリスナーの感情に響く歌詞をちゃんと書いている。そつなくリスナーが求めるものを提供しているという点で、彼女は作詞のプロといえるだろう。

 

最期に。

言葉は時代によってかわる。

よく年配の方たちが、若者言葉を揶揄して正しい言葉づかいじゃない!と怒る光景をみかける。

だが果たして正しい言葉遣いなどあるのだろうか。

年配の人達が正しい言葉遣いと言っているのは、彼らが生きた時代に習い、通用した言葉であって、正しい言葉というわけではない。古文が正しい日本語と言うひとはなかなかいないだろう。結局、若者言葉と年配の方がいう正しい言葉づかいの違いというのは、今つかわれているか昔つかわれていたかの違いにすぎない。

言葉はコミュニケーションのツールであって、コミュニケーションが成り立つのであれば、どんな言葉だろうがかまわないのだ。 

僕は、西野カナを新しい文芸表現の開拓者だと思っている。

単純でストレートな語彙をうまくストーリにのせることで、難しい言葉を用い回りくどく表現する他のアーティストよりも、聴衆の感情を揺さぶることに成功している。

彼女に対するアンチが多いのはそれだけ時代を先行しているからだと言える。

マツコ・デラックス西野カナ中島みゆきと比較して酷評したが、

僕は、西野カナ中島みゆきにひけをとらない、むしろ同じように才能ある気鋭の表現者だと思っている。

 

 

www.youtube.com

 

人間の振れ幅

僕らが70年前の世界史を学ぶ時、まったく違う世界の出来事を学んでいるかのような感覚を抱く。

ナチスユダヤ人大虐殺、大日本帝国帝国主義拡張による無謀な戦争、植民地時代。
僕らの知っているおじいさんおばあさんが生きていた時代なのに、現代とまったく繋がっていない世界の歴史に思える。

僕らがそんな違和感を抱くのは、人間の振れ幅がそんなにも大きいからだろうか。それとも、歪曲された歴史観を習っているからだろうか。

人間は、環境によって何者にもなれるということを僕らは知っておかなくてはいけない。

 

 

「It's up to you!」 / タイの露天商が放った僕の課題を突いた言葉

f:id:akayari:20160211225248j:plain写真:チェンマイ名物カオソーイ

 

チェンマイのノスタルジックなサタデーナイトマーケットが懐かしい。

チェンマイの服売りのおばさんは、値引きを繰り返しながらも買うか買わないか迷い続ける優柔不断な僕をみて、「あなた次第なのよ!」と言い放った。

おばさんは、呆れたような、叱っているような言い方でその言葉を言った。

当時の僕の生き様を象徴する言葉にように感じて、ドキッとした。

露天商のおばさんは、物の売り買いというささいな行動だけで僕の性格と生き方を見ぬいたのだと思った。

大学4年で、二十歳の成人式を過ぎて二年が過ぎても、人生を自分で選ぶことができていない僕がいた。

当時、そんな優柔不断な生き方をしてきたツケがまわってきたように、つらいことが重なって起こっていた。

タイ旅行はつらい生活からの逃避行のようなものでもあった。

露天商のおばさんという思いがけない場所から、お叱りを受けることになったのだった。

人間は環境の変化に弱い。

今までと同じ職場で同じ仕事をしていたとしても、ささいな変化でまったく違う職場に感じる。変わった次の日は、まったく違う朝を迎える。それは悪夢とともに迎える朝であって、桃源郷の恍惚感とともに迎える朝がくることはめったにない。

人間は環境に適応し、適応したあとは恒常性を保ち続けようとする。環境が変化すると、ストレスを感じ、身体は大量のエネルギーを消費する。

変化が良い方向か悪い方向かは関係ない。変化の良し悪しは人間の理性が決めるからだ。職場に変化が起こる前と、変化後に適応し恒常性を保てるようになった後を比べた時、前より良くなったように感じる時があるだろう。しかし、人間の身体自体は変化の前と後でなんらかわりはないのだ。細胞が生まれ変わり、記憶が再構築されただけ。理性がなんらかの基準をもってして、前よりよくなったと判断しているのだ。

人間は環境の変化に弱い。恒常性を保てなくなる時、人間は弱る。いくら経験を積んでも耐性がつくことはない。まったく同じ変化を経験する場合にはストレスを感じることはないが、これは既にその変化自体が恒常性の一部になってしまっているからだ。
だが変化は進歩していくためのきっかけである。恒常性を獲得する闘いこそ、人間の歴史だったのだから。

「人工知能のジレンマ」について考えたこと /ニッポンのジレンマ元旦スペシャル競争と共生のジレンマ

正直、この会に集まった論客の半分以上は人工知能についてほとんど知らないし興味もないようにみえた。

話はそれるし、この手の新しいテクノロジーに関する話題につきものの管理と倫理の問題に収束してしまうし、煮え切らない議論だった。

 

人工知能、いわゆる「強いAI」への注目が集まってきたのは、グーグルがディープラーニングの開発に投資しはじめたからだ。

ディープラーニングによって、これまでコンピューターには真似できない人間の特殊能力だと捉えられてきた「パターン認識」が、コンピューターでもできるようになる可能性が開けたのだ。

人工知能業界(?)の強烈なブレイクスルーだ。巷では「これから人工知能の時代が始まる」なんてあちらこちらでいわれている状況だ。

ドイツではAIとITを駆使して「考える工場」をつくるインダストリー4.0なんていう一大プロジェクトを進めている。

 

以上のような背景を踏まえた上で、ニッポンのジレンマでは情報革命の最期の切り札であるAIの開発に関する現状と、日本のIT業界、またドイツの例から日本のモノづくり業界は今後どのように変化していく必要があるか、ということついての議論がみたかった。

ロボット大国ニッポンを目指せばいいとか管理の問題とかずっと昔からなされていたようなありきたりで埋め合わせの話ではなく、ワクワクするような未来の話をして欲しかった。

そのような話は文系の学者が得意とするところではないだろう。

だからその意味で、理系人間しいては製造業に従事しているパワフルな技術者がこのような番組にもっと出てきて、モノづくりの面白さを話してくれることを僕は期待しているのだ。

【映画の紹介】罪とは何か? /セブン(1995年公開)

ブラッド・ピット出演作の中でもおすすめされることの多い映画。僕も前からずっと観たいと思っていた。


感想。まず、すごく面白い映画であることは確かだ。

でも面白いだけで名作であるとは限らない。この映画は罪について新たな気付きを与えてくれた。

これから先も生きている中でたびたび振り返り、人間の不思議について考えることになるだろう。だからこの映画は名作だ。

だが問題はもっと普通にある人々の罪だ

罪とはなんだろう。
法律で決められていること?法律上の犯罪を犯していなければ、何の罪もないといえるのか?法律で定められていれば、それが真の罪なのだろうか?

映画のテーマになっている7つの大罪、きっと誰もが犯したことがあるのではないだろうか。

どこかの宗教では視姦も罪だということを聞いた。そんなことを言ったら、僕は何度罪を犯していることだろう……。
つまるところ、僕らは刑務所に入ることも裁かれることもなく、普通に生きているようにみえても、いつかどこかの国で罪だとされきたことを常に犯しながら生きているわけだ。

日常の罪を意識することなく生きている僕ら。法律を破った者になら何を言ってもいいと言わんばかりに糾弾する僕ら。

どこかの誰かが見たら、とても奇妙な社会に映るかもしれない。

もっと抽象度を上げてみると、なぜ罪などどいう概念があるのか、人はなぜ罪悪感を感じるのかといった疑問を抱く。

ともかくこの映画は、ただ面白いだけじゃなく多くの気付き(教訓)を与えてくれるのだ。

【雑感】宗教のジレンマについて考えたこと ニッポンのジレンマ 元旦スペシャル”競争”と”共生”のジレンマ 

ISテロの原因を承認の供給不足と経済格差にみる議論は面白かった。IS・オウム・連赤事件の原因を承認の供給不足にみることはたしかに的を射ていると思う。同様にISテロを格差問題とみることもできるだろう。しかし、僕は宗教がテロを起こす要因はもっと人間の奥深い側面にあるのではないかと思ってしまう。

オウムが無差別テロを起こした理由を考えるとき、文藝春秋の2014年2月号に載っていた井上死刑囚の手記を思い出す。詳しい文章は覚えていない。簡単に言うと、彼ら(オウム)がサリン事件のようなテロを起こした理由は、

特別な能力を有した人間が、その能力をもってして多少の犠牲を払ってでも恵まれない人たちに施しを与えるため

だったということが書いてあった。

井上死刑囚を含め多くの幹部らは、自分達の行動が社会をより良い方向に進めていくと信じていた。ナポレオン思想と言うのだろうか、理想の社会をつくるためには大衆の犠牲は仕方がないと考えていたわけだ。

彼らが入信したきっかけには承認の供給不足があっただろう。格差からくる劣等感がプライドを助長させたともとれるだろう。しかし、幸せな社会を目指し、カリスマに教化され危険なナポレオン思想に染めてしまう宗教の問題を承認の供給不足や経済格差だけにみることは浅はかなのではないかと思った。人間の行動に関してはまだまだ科学的に解明されていないことが多い。宗教がテロひいては戦争を引き起こす原因については、経済や政治から離れて精神に深く入り込んで考えることが必要だ。

【雑感】経済のジレンマについて考えたこと ニッポンのジレンマ 元旦スペシャル”競争”と”共生”のジレンマ

この番組の大テーマは、“競争”と“共生”。

番組で議題になっていたテーマに関して、自分の未熟な頭で思ったことを適当に書いてみる。

 

公平

何が公平か公平でないかという基準は、人間が決める。宇宙のスケールから見れば、人はみな公平といえるだろう。人間はみな地球の物質から生まれた生命体に過ぎないから。資本主義社会の中でみれば、人間は公平ではないだろう。社会保障で何をしようが公平になることもないだろう。公平になるには、ホリエモンが言っていたように精神的な刷り込みが必要になっちゃうような気がする。

 

資本主義

資本主義の政治的な目的は『自由』で、経済のシステムを見れば『資本の増殖』が目的だといえる。

資本主義は競争社会の極みだという前提で話されているが、本当に競争しているのは資本家だけだろう。多くの一般人、つまり労働者は資本主義システムの中で競争しているとはいえないのではないか。産業革命がいまの資本主義が生まれたきっかけだとすれば、私有財産をもった奴隷が労働者だと言える。多くの労働者にとって、競争とは日々の不安もしくは貧困との闘いではないだろうか。

 

自由

「安定があったうえで自由があり、先には理想がなくてはいけない」

自由とはなんだろう。人間はそもそも自由なはずなのに、人間同士で互いを縛りあっているようにみえる。

 

個人的に大きく肯いたのは、ベーシックインカムに関する議論で三浦氏が、「本当に分配すべきは教育なんです」と言っていた点。お金をばらまいても、使い方を知らなければその人のためにならない。『7つの習慣』に書いてあった気がするが、金の卵をあげるよりも、金の卵を産むガチョウをあげたほうがその人のためになる。ここでガチョウは知識や知恵、つまり教育といえる。古市さんがうまくまとめたように、再配分ではなく事前配分ができれば、幸せな人は増えると思う。

 

【雑感】ニッポンのジレンマ 元旦スペシャル”競争”と”共生”のジレンマ 

 5年前の第一回の放送から毎年正月にこの番組を見ることが恒例になっている。最初にこの番組を観た時、僕は大学1年生だった。第一回は、猪子さん、安藤さんや駒崎さんなどが出ていて、今思うとそうそうたるメンバーだったなと思う。当時、自分とそう歳の離れていない人達がはっきりとした物言いをしているのをみて刺激を受けるとともに、少年のように憧れを抱いた。自分はあと数年でこの人達のようになれるだろうか、誰かに自分の意見を求められる人物になれるだろうか、この場に出ている人達のようにはっきりした立場にいる存在感のある人間になりたい、と将来への期待を抱いた。

今の僕はそのなりたいと思っていた人物になれているだろうか。正直、5年前からあまり変わっていないようにみえる。人を引き付けるような背景のある立場にいるわけでもないし、はっきりとした意見をもっているわけでもない。今年も正月を迎えこの番組を観て改めて刺激を受けた。

 

この番組の出演者はいつも理系に対して文系の学者が多い。毎回、IT業界を代表とする理系畑の人達と学者達との議論が噛み合っていない印象をうける。学者は日々論文や学会を通して論理的思考力が鍛えられているだけあって言葉が的確だし批判に耐えられるだけの論拠をもって発言している。文系の学者の仕事は過去の出来事について再定義し、理論を構築するというのが日々の仕事になっているようなわけで、このような討論番組でも未来像を描くというより言葉の定義を言い争っていることが多いようにみえる。一方、理系の代表であるIT業界の人達の発言は、夢物語であってもテクノロジーの進化から期待される将来の姿を語る。学者はジョークでしか夢物語を語ることはできない。論拠のない推測を安易に行うと職を失う可能性だってある。だからIT業界の人達と学者の議論は噛み合わない。個人的には、理系の人の話す夢物語を聞くほうが希望や好奇心を満たされるので好きだ。理系の技術者にもっと出演してもらうことを期待している。

www.nhk.or.jp

作家の書く文章 / 朝日新聞寄稿(2016.1.8) 中村文則【雑感】

 これは作家の文章だと思った。ロジック、主張の説得力などは必要ない。この文章には人の心に入り、人を動かす力がある。学者が書くような論理の正確さだけを追い求めて読みづらくなった文章を書く必要はないのだ。周囲に迎合せず、曇りのない眼でみて感じたことを書けばいい。作家は確立されたシステムに風穴を開ける存在なのだ。

眠るという創造 朝日新聞社説(2015.12.31)【雑感】

「その場にとどまるためには、全力で走り続けなければならない」

ルイス・キャロルの小説『鏡の国のアリス』に登場する赤の女王が発する上記の言葉は、赤の女王仮説として生物学でも有名だ。この言葉が表すように私たちは、前進するためには活動し続けなくてはいけないと考えるフシがあるように思う。

僕自身、幸せになるためには毎日を活動的に過ごしていくことが必要であると考えていた。楽しいことや夢を求めて活発に動き回ることが正しいことであって、停滞することは悪いことだと考える傾向があった。

 

大晦日の朝日新聞の社説に、そんな価値観を変えてくれるような面白いことが書いてあった。この日の社説は文学的で天声人語のような雰囲気があった。

世界はどうやってできたか。アメリカ先住民のアコマヴィには、こんな神話があるという。

雲が固まってコヨーテになり、霧が凝縮してギンギツネとなる。ギンギツネは熱心に仕事をして、陸地をつくり、木や岩をつくる。コヨーテはその間、ただ眠っているだけ。コヨーテは眠ることでギンギツネの創造に協力しているのだ――。(河合隼雄「神話の心理学」)

コヨーテはなぜ、眠っているのに創造に協力しているのだろうか。陸を作り、木や岩を作ることが必ずしも創造に貢献しないからだろうか。地球が昼と夜とで半々にわかれているために、活動と休息の両面から世界を想像する必要があるからだろうか。

神話の目的がなんであれ、僕に感銘を与えるのは、世界を創造するものは活動的なギンギツネだけではなく眠り続けるコヨーテも含まれるということが、ある文化では当然とみなされているということだ。活動し続けることが前進することだという僕の価値観は固定化されたマインドだということに気付かされる。

グローバル資本主義社会で競争に揉まれているうちに、休息の重要性を僕たちは忘れがちになるのかもしれない。

 

この日の社説では、鶴見俊輔さんの詩も引用している。

深くねむるために 世界は あり/ねむりの深さが 世界の意味だ(「かたつむり」) 

手段が目的化し、あくせく働くことそのものが自らの目的になってしまいがちな現代社会で、眠ることに世界の意味を見出すことのできる人はどれだけいるだろう。

 

逆説的な主張に僕は生き方を考えなおされた。創造するとは、何らかの行動を起こすことだと考えてしまうが、何の行動も起こさないこともまた創造なのだ。活動し何かを残すことが、世界の意味だと捉えるかもしれないが、限りなく個人的な営みである深い眠りもまた、世界の意味であるのだ。

停滞または後退とみなされがちな休息をもっと大事にしていきたい。

【音楽の紹介】ロックンロールの体現  シスターマン / 毛皮のマリーズ

僕の大好きなバンドである毛皮のマリーズの曲。

この曲の2007年埼玉VJ-3でのライブ映像がYoutubeに上がっている。大学時代、この素晴らしくかっこいい動画をみてしびれまくった。ロックの素晴らしさを体現したような曲だと思った。

ロックという音楽ジャンルには様々な定義があるだろう。バンドをしている人、評論家、音楽好きな個人、一人ひとりがロックに対する多様なイメージをもっている。ロックという言葉は、形容詞のような使われ方もする。まったく音楽と関係ないシーン、例えば、政治的な外交交渉の場面から街角での人と人との小さな小競り合いといった場面に至るまで、ロックのイメージを表しているのなら「これはロックだ」と形容される。

毛皮のマリーズのシスターマンは、演奏形態・音楽理論といったものがロックに当てはまるかどうかといったことに関わらず、「これはロックだ!」と叫びたくなってしまう曲なのだ。

まばらな観客、ひたすらにナルシシズムに浸っているようなボーカル・ギタリスト、フォトジェニックなバンド、そしてシスターマンという壮大なブルース、そういった要素が相まって素晴らしい空間を作り上げている。

噂によると、志磨さんは18歳の時にこの曲を書いたらしい。たしかに、十代の青年が抱くような、反体制的かつ弱者への優しさに溢れた歌詞だ。「後ろ指さされ罵られる」彼/彼女に向かって、志磨さんは「歴史も神話も嘘さ」と言い励ます。

街の暗がりの小さくて人もまばらなライブハウスのステージで、歴史も神話も否定してしまう毛皮のマリーズのシスターマンはまさしく”ロック”だと僕は思う。

 

www.youtube.com