地図とコンパス

人はときに美しいと思える瞬間に出会うこともあります。人生の地図とコンパスをつくっていきましょう。

【雑感】未来を描く 2015年度政府予算案

今年も政府予算案が発表された。僕たちはテレビ、新聞、ネットでその情報にふれ、数十兆のお金の割り振られ方を知る。そして、今年も40%近い額を国債で賄われていることを知る。

世間のみんなは予算案をみていろいろレビューするだろう。控えめに言わなくとも僕には予算の是非や裏の真相を論じる力はない。それでも、ニュースで国家予算の報道が毎回流れるたびに、僕はなんだか違和感を感じていたので書いてみる。

政府は、資本主義社会の”利益がでなければ収入はない”システムに縛られることなく、首領の意思で社会に必要な予算を決めることができる。そのため、政府予算は人間の意思で自由に社会をつくるための唯一にして最大の手段であるといえるだろう。

それなのに、棒グラフまたは円グラフで示される予算案をみると、現場をみない閣僚がお金だけで国の課題を解決しようとしているようにみえるし、高い国債発行比率は民主主義の声をひろいすぎて膨らんだ会計の叫びにみえる。本来、自由で美しく、私たちの国の希望を物語るはずの予算案は、無機質でネガティブな印象を僕に与えるのだ。

そんな印象をもってしまうのは、僕が各省庁の活動や政策に無知であることに大きな原因があるだろう。でも、もっと美しく未来への希望をわかせてくれるような予算案の提示をみてみたいと感じるのは僕だけだろうか。

 

【音楽の紹介】I LOVE YOU / 尾崎豊

 

中学生の頃、母親の車のカセットテープから流れてきた尾崎豊の歌う「I LOVE YOU」を聴いてその歌声に魅了された。当時、尾崎豊といえば名前を聞いたことはあったが、どんな声でどんな歌を歌っているか知らなかった。野太い声で激しいロックを歌っていると勝手にイメージしていただけに、「I LOVE YOU」の甘い歌声に驚いた。自分の通う地元の中学校では決して出会うことはないであろう、洗練された格好いい美青年の先輩が歌っているようで、強い憧れを抱いた。

個人的にこの曲は91年の横浜アリーナのライブ映像の印象が強い。僕が中学や高校の頃、音楽番組のラブソング特集で必ず1位か2位にランクインするこの曲は、暗い会場で歌う尾崎の横顔をアップにした横浜アリーナのライブ映像でよく紹介されていたからだ。僕を含めた現代の若者にとって、産まれる前に死んだ尾崎豊は謎の多い存在であり、暗い中で歌う尾崎の横顔がそのミステリアスなイメージを象徴していた気がする。

今でもこの曲の歌詞に出てくるカップルの情景は僕に恋愛のモチベーションを教えてくれる。恋愛の意味や価値について迷った時この曲を聴くと、限られた空間の中で好きな人に身が震える程の愛しさを感じる瞬間を求めて人は恋するのだと気付く。

あれから10年経った。僕はどれくらいあの頃の尾崎に近づいただろう。

 

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【雑文】戦いの詞

ひとつひとつていねいに壊していった

すみずみまで協力しあい壊していった

真っ白な塔の上から怒声が聞こえる

顔を真っ赤にさせて

幸せを壊すなと叫んでいる

 

真実のない世界に造られた正解を壊したら

真実が残る

缶詰に詰められたビー玉たちは

自分の価値を知る

 

暇つぶしで作られた世界で

僕らはたくさんの反吐を吐き

身体を砕かれ

苦しんできた

 

システムを作り変えろ

自分が正解になるように

ひとつひとつていねいに

すみずみまで協力しあって

 

【雑感】今後10年間

今日の出来事。

25歳になって一週間が経った。考えると10年前は中学生だったのかと、時の流れの早さを思い過去10年間で経験したことを思い返した。そして、今後の10年間のことを考えた時最初に浮かんだのは、「自分は今後どれだけつらいことを経験するのだろう」ということだった。どれだけ楽しい時間を過ごせるだろうではなく、どれだけつらいこと経験するだろうと思ってしまう自分に衝撃を覚えた。僕は自分はまだまだ受け身だなと思った。

つらいという感情は、受け身な自分が外部環境の変化に適応できずにいるときに感じる。オーナーシップのある生き方をしている人にとって、つらいことは夢に向かう途中に現れる壁だ。そのため、オーナーシップのある生き方をしている人にとってはつらいことは楽しい時間と同じなのだ。

僕はまだまだオーナーシップのある生き方をできていないと実感した。今後10年間、どれだけ楽しい時間を過ごせるか考えてみよう。

 

【雑感】常識にとらわれずに生きる

仕事で成功し多くの人から憧れと尊敬を集めている人は世間一般の常識から外れた道を歩いてきた人が多いと言われる。

なぜだろう。

おそらく人はみな、自分が輝く道を知っている。いつだって自分が本当にやりたいことって頭の片隅にあるはずだ。自分が納得したやり方で歩いていくことができたなら、きっと目的地(夢)に辿りつくことは簡単なことなのだろう。だけど、決断をするときは大抵常識が枠を作ってしまう。自分が正しいと考えていても、他人から否定されると歩けなくなってしまう。常識が自分にとっても一番正しい道を示してくれると考えているから。だから自分の目的地は遠ざかってしまい、人並みの歩き方になってしまう。

常識的な道をとっていると、失敗していることがわからないし、失敗を自分以外のせいにできる。自分が正しいとおもって起こした行動なら、失敗したとしても経験値というコップを満たしていくことができる。オーナーシップのある生き方というのは、他人や常識にとらわれずに生きることができるということだろう。

成功者が世間一般の常識から外れた行動をしてきたというのは当然なのだ。むしろ、他人や社会から自分の行動を否定されることなく成功するのは不可能といえる。

自分がやりたいと思うのならやってみるがいい。生きている限り何をやったっていいのだから。

 

蜂蜜パイ―神の子どもたちはみな踊る / 村上春樹【本の紹介】

これまでとは違う小説を書こう、と淳平は思う。夜が明けてあたりが明るくなり、その光のなかで愛する人々をしっかりと抱きしめることを、誰かが夢見て待ちわびているような、そんな小説を」*1

村上春樹にしては珍しく、まともな世界のまとも(?)なラブストーリーを描いた短編。村上春樹らしい設定だけど(例:主人公が努力せずに友人や女性に恵まれている・都合よく環境が好転するなど)、意味深で象徴的な台詞や展開が出てこないためすんなり理解しやすい。最後はわかりやすいハッピーエンドで終わる。

この短編を読んだ大学生の頃はすごく共感できたし、自分は村上春樹と似たタイプの人間なんだと思った。本当は自分にも同じ権利があるのに、何事も受け身な自分は思い通りに事を進められず、積極性のある他人になんでも先に持っていかれてしまう。そうしているうちに自己卑下が進み人生で起こることすべてに消極的になる。高校や大学時代の自分がそうだった。おそらく村上春樹も同じ経験を結構長期間にわたって味わってきたことがあるのだろう。でないとこんな小説を書けないし書きたいと思わない。僕は結末に出てくる冒頭で引用した言葉で夢を見て希望をもらい、良い小説だと感じた。

しかし、最近になって読み返すとこの小説はある意味とてもキモチワルイ物語だと思うようになった。逆に今でもこの小説を“良い”と感じるのなら僕は大学生時代から一歩も前に進んでいないことを意味する。主人公は物事を好転させるために何も努力していないし、ハッピーエンドの先にある問題(沙羅を含めた家庭)について何も考えない。本当は自分と彼女は両想いだったのに……と悲観しながら生きることは、すごくキモチワルイことだ。だって、小夜子が自分を好き(だった)かどうか自分は確かめもしていないし、自分の気持ちを伝えていもいない。ありもしない妄想をして一生悲観し続けているのと同じことなのだ。

この小説への共感が許されるのは、前途にまだ希望をもつことができるモラトリアムの期間だけだ。その期間なら、この物語に共感し涙を流すことだってできる。しかし、人生の行き先の狭まった者にとっては、主人公の自己卑下と悲観がナルシシズムからきていることがわかりキモチワルさを感じてしまう。

といっても、この小説がなぜ今でも僕の心を動かし最後まで読ませる力をもっているかというと、それは村上春樹の圧倒的な文章力があるからだ。キモチワルさを感じながらも共感し、結末で強烈に幸福感を感じさせてしまう春樹の才能に脱帽してしまう。

 

ところで「ディセンシー」ってなんだろう。

 

 

神の子どもたちはみな踊る (新潮文庫)

神の子どもたちはみな踊る (新潮文庫)

 

 

【映画の紹介】コンタクト

パーカー「君は神を信じる?」

エリー「いいえ。証拠がないもの」

パーカー「君は父親を愛していた?」

エリー「ええ、もちろん」

パーカー「証拠は?」

中学生の口喧嘩みたいな会話?

いやいや違う、単なる言葉尻をつかまえた言葉遊びの会話というわけじゃない。シンプルなこの会話にはこの映画の主張を代弁するような大事な主張が隠れている。僕は映画史を代表する名会話だと思う。この映画を思い浮かべるときは必ずこのシーンを思い出す。

現代の日本に生きる僕たちは、何かと宗教とか迷信といった非科学的なものをバカにする傾向があるけれども、よく考えたら僕たちは宗教や迷信と同じくらい非科学的なものを拠り所にして生きているんじゃないだろうか。

多くの人は、誰かを愛していたもしくは愛されていた過去を拠り所にしてつらい出来事を乗り越えた経験があると思う。しかし、誰かを愛していたもしくは愛されていた過去は、自分の記憶以外のどこに証拠があるのか。自分が忘れてしまえば、なかったことと同じになってしまう。もしかしたら、その誰かを自分は愛していなかったかもしれないし、もしくは愛されていなかったかもしれないのに。

宗教が証拠のない過去の物語であっても、人々に生きる拠り所を与えているのであれば、僕たちはバカにすることはできないだろう。誰もが証拠のないものに癒され元気づけられて生きているのだから。

 

コンタクト 特別版 [DVD]

 

 

【モノの紹介】クラークスのゴアテックスブーツ

大学三年生の頃から、冬にはクラークスのブーツばかり履くようになった。ゴアテックス仕様のブーツだ。僕はこれがすごく気に入っている。

まず、ブーツなのに靴擦れしない。買った直後のまだ革が足に馴染んでいない状態でも、一度も靴擦れをしなかった。それまで、ドクターマーチンやティンバーランドのブーツを履いてきたが、特に履き始めは靴擦ればかりしていた。ブーツってそんなものだろうと思っていたから驚きだった。

加えて履き心地が良い。足がちょうど良い具合のモフモフとした生地で覆われているような感じ。柔軟性があって革のブーツ特有の固さがないし、歩いても足とブーツの間に隙間が空かずフィットする。

そして暖かい。上述したように足が靴のモフモフで覆われているためか、雪道を歩いていても冷たさを感じにくい。ティンバーランドのブーツだと足先が冷えてしもやけになることがあったが、クラークスのゴアテックスブーツだとなかった。

ただ、ゴアテックスには透湿性があるらしいが、さすがに少し蒸れる。暖かい日にはあまり履きたいとは思わない。

クラークスは、あの有名なデザートブーツに代表されるように、創業時から「ソフトな履き心地の靴」を目指しているそうだ。カジュアルすぎない少し上品なデザインと履き心地の良さで、僕はすっかりクラークスのファンになってしまった。ゴアテックスのブーツは今年二足目を買った。また、春から秋の暖かい季節にもクラークスのシューズを二年近く使用している。

値段もそんなに高くないため僕のようなお金のない若者でも買いやすい。でも、もうすこしブーツのラインアップを増やして欲しいかな。

 

www.clarks.co.jp

村上隆の五百羅漢図展【出来事】

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先日、東京へ行ったついでに村上隆の美術展を観た。

今まで西洋の画家の美術展を数回行ったことがあるが、正直いくら背景や技術を説明されても作品のどこがすごいのか、なぜ価値があるのかピンとこなかった。さも関心したように絵やオブジェを眺めて、そうかこれがすごいものなのかと自分を無理矢理納得させていたような感じだった。

しかし、村上隆の仰々しい羅漢の絵をみたとき、芸術の価値というものが少しだけわかった気がした。僕はあの羅漢の絵を見た後、もう一度じっくり眺めてみたいと思った。それまで西洋の画家の美術展に行ったときには感じなかった感想だった*1。どうやって作り上げられているのか、あの線一本はなぜ書かれているのか知りたいと思った。美しいものを観たときに感じる感動とは異なる。ただ、どうして?なぜ?そんなものがここにあるのかということを、ただ知りたいという感じだ。そしてその欲求こそが芸術の価値を生みだすのだと思った。未知との遭遇のようなものだろうか。自分では創り出すことができないものに対する憧憬ともいえるだろうか。あんな変な絵を描きながら、美術作家として第一線で活躍する村上隆に対する好奇心だろうか。

僕は芸術作品の価値をつくりだしたのだ。そのとき初めて、なぜ芸術が価値をもつのかがわかった。

ただ、くだけた感想をいうと、あんな一見わけのわからない妖怪みたいのものを大人たちが関心したように眺めている美術展の様子はなんだかシュールで、そんな雰囲気のほうが面白くて楽しめると思う。

 

www.mori.art.museum

 

*1:西洋の美術が優れていないと言いたいわけではない。多分村上隆は同時代を生きる現代美術家であるため、僕が理解しやすかったのだろう

【音楽の紹介】Forever Love / X JAPAN

この曲を聴いたのは高校生の頃だっただろうか。

高校生ぐらいの年頃の青年はよく哲学的なことに疑問を持つと言われるが、僕もご多分にもれず社会や自分に疑問を感じながら高校生活を送っていた。その頃は感受性が強く、一冊の本、一枚のCDからでも大きな影響を受けていた。人生の意味を示唆するような物語や共感できる言葉に飢えていた。

「Tell me why, tell me true 教えて生きる意味を」

このフレーズを聴いたとき、泣いてしまったことを憶えている。疑問を抱いているのは一人じゃないんだと励まされた気がした。自分の居場所が社会にあったんだと思った。

X JAPANが熱狂的な人気を誇るのは、僕のような社会や自分に疑問を感じてしまう人に共感と居場所を与えてくれるからだ。その存在は閉塞した社会の路地裏で結成されたレジスタンスに似ている。

当時の僕はこの曲を聴き、X JAPANという存在を知り、この社会で生きる希望を見出したような気がした。

 

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【本の紹介】外資系コンサルのスライド作成術 / 山口周

大学院に入りたての頃、この本が非常に有用なアドバイスを与えてくれた。そのころの僕は、スライドの作り方がわからず、うざったいほどに先輩に相談ばかりしていた。なにからどう手をつけていいかわからず、自分一人でスライドを作れるようになれるなんて考えられなかったくらいだった。

僕にとって有用なアドバイスとなった内容はほとんど第一章にある。特にストーリーをつくってからスライド作成にはいるというアドバイスは、プレゼンに対する大事な考え方を教えてくれた。スライドというのは、あくまで自分の目の前にいる人に対して情報を伝えるための補足資料である。目の前の人にどれだけ自分の伝えたいことを魅力的で正確に伝えることができるかというのがプレゼンの目的であって、スライドの美しさやストーリーに執着したようにこだわるのは重要なことではないのだ。だから、この本ではパワポによるスライド作りは一番最後に行う作業だと教えている。

万人の攻撃を防げるようなスライドを作ることは不可能ではあるが、スライド作りを効率のよいフレームワークに落としこむことは可能だろう。この本を読んだおかげで大学院時代の幾多の学会、ゼミ発表を乗り越えられたと思う(それでも修羅場は何度もあったけど)。

 

 

 

外資系コンサルのスライド作成術―図解表現23のテクニック

外資系コンサルのスライド作成術―図解表現23のテクニック

 

 

【音楽の紹介】Empire state of mind / JAY-Z, Alicia Keys

この曲を聴くと、都会への憧れを思い出す。

「すべてを叶えてくれるコンクリートジャングル」 

素晴らしい響きだと思う。

世界に駆け出してやろうという気持ちを思い出させてくれる。

 

いつから自分は安定した人生を送りたいと思うようになってしまったのだろう。

目立つことだけ考えていた昔の自分は、今のような人生を望むわけはないだろう。

人は、感情を忘れやすい。

ニューヨークのストリートとネオンがJAY-Zに新鮮な気持ちを与えるように、この曲はたとえ英語がわからなくても聴いているだけで僕に十代の頃のギラギラした感情を思い出させてくれる。そんな特殊な力をもっている曲だ。

 

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【本の紹介】ネシャン・サーガ / ラルフ・イーザウ著

僕の人生に大きな影響を与えた本を挙げるとき、この本を欠かすことはできない。

嵐の海を航り、灼熱の砂漠を抜け、猥雑な街を辿る冒険は少年の好奇心を満たすのに十分な面白さがあったが、他の児童文学とこの本が一線を画してしていたのは、主人公が最大の敵を倒す方法にあった。

主人公は最期、武器である”裁き司の杖”を使うことなく最大の敵を倒す。彼が敵を倒す決定打に使ったのは一輪の花だった。闇に一筋の光を照らす花を敵の前になげうつことで最大の敵をうち倒したのだ。

そう、思想は剣や魔法よりも強い力をもつのだとういことを教えてくれた。

以降、チャンバラ少年から思索に耽る少年への扉が開かれた。

 

 

ネシャン・サーガ〈1〉ヨナタンと伝説の杖

ネシャン・サーガ〈1〉ヨナタンと伝説の杖

 

 

 

ネシャン・サーガ〈2〉第七代裁き司の謎

ネシャン・サーガ〈2〉第七代裁き司の謎

 

 

 

ネシャン・サーガ〈3〉裁き司最後の戦い

ネシャン・サーガ〈3〉裁き司最後の戦い

 

 

【本の紹介】裸でも生きる / 山口絵里子

 自分のやりたいことをして生きていくにはどんな生き方をしたらいいのだろう。山口さんの生き方は僕にその答えの一端を教えてくれた気がした。

 フェイスブックCOOの女性が書いた『Lean in』という本の、「怖がらなければ何ができる?」*1という言葉を思い出した。この言葉は、自分のやりたいことを阻害する要因に恐怖がどれだけ大きな割合を占めているかを気付かせてくれる。山口さんはこの言葉を体現したように、やりたいことができる選択肢を選び続けてきた。

 

 

裸でも生きる ~25歳女性起業家の号泣戦記~ (講談社+α文庫)

裸でも生きる ~25歳女性起業家の号泣戦記~ (講談社+α文庫)