僕らの行く道

若者の若者による若者のためのブログ

信仰の必要 / ワークライフバランス2

ポケモンGoが配信開始されたのは3ヶ月ほど前だっただろうか。老若男女から普段ゲームをしない人まで、日本中の誰もがアプリをダウンロードしているような過熱ぶりだった。果たして、今、ポケモンGoに熱中している人はどれくらいいるのか?誰かが区切りをつけたわけでもなく、いつのまにか大きな流行は過ぎ去ったようだ。

一定の周期毎に流行りものに食いつき、その時毎に一時的な情熱を傾ける。その対象はスマホゲーム、ドラマ、ゴシップネタなど。大抵の人は、もともと好きだったから情熱を傾けているわけではない。そのときたまたま登場して話題になった、面白くて中毒性のあるコンテンツに群がっている。

家事は楽になり、資本主義経済によりお金が回るシステムをつくることで稼ぐことが楽になり、効率化によって移動時間や待ち時間がどんどん短くなる。また医療技術の進歩で平均余命は伸びるばかり。

生きるために生きる必要がなくなり、余暇の時間を持てるようになったのはいいが、その余暇の時間を、そのときの流行りモノにつかっている。面白かったら食いつき、面白くなかったら捨てる。人間は、このような時間の使い方をするために高度にシステム化された社会をつくってきたのだろうか。

効率化を追求してきた社会で、余剰となった人間の活力と時間はどこに向かうのだろう?僕たちの生産性はきっと百年前の人達よりかなり高くなった。次第に人々は、自分たちのやっていることはお金とものをぐるぐる回しているだけなんじゃないかと気づき始めている。神話に出てくる拷問じゃないが、レンガを積んでは壊すという作業を一生続けているようなものだ。僕たちはなんのために生きているのか、何のために僕たちのエネルギーを使うのか、ということが問われ始めている。

そこで、僕は信仰をもつことが必要なのではないかと考える。社会が効率化を追求する中で、その目的というものが希薄になっている。目的を作り出すために信仰が必要となる。ここでいう信仰とは、絶対神を崇めるというようなおおざっぱなものではなくて、日常生活に目的を与えるようなものーー例えば私は家族の幸せを最優先に考え行動する、私は地球環境を最優先に考え行動するーーをもつことを意味する。

現代の日本では、信仰というとネガティブなイメージをもたれやすい。1990年台のオウム真理教によるテロ行為は、人々に宗教=危険という認識を抱かせた。世界で頻発するイスラム原理主義者のテロも、宗教は人間をコントロールできない状態に追い込むウイルスのようなものだという認識を人々に与えた。

実は、多くの日本人は既に危険な信仰をもっている。先進国の中では図抜けて高い労働時間(残業時間)とそこから発生する過労死問題をみると、日本人は会社信仰あるいは経済信仰のようなものに洗脳されているといえないだろうか。おそらくこの原因は、戦後あらゆる信仰が破壊された状態で、資本主義という信仰が急速に大きなエネルギーで日本全土に広がっていったためだ。いま、日本人は資本主義社会のストレスに苛まされ、増えた余暇の時間までも移りゆく世の中に流されている。

資本主義に代わる、別の信仰がいま必要とされている。資本主義という信仰に、仕事もプライベートも含めて24時間染まるのではなく、少なくともプライベートの時間くらいは、他の信仰をもつべきだ。その信仰は、現代人の生活を豊かにするために能動的につくりだされるものだ。神話や伝説をもとにつくりだされている宗教とは違う、いわば人工的な信仰だ。

90年台から00年台の始めには資本主義の限界説が取り沙汰されるようになり、21世紀は「心の時代」だと言われるようになった。矛盾やきしみが露呈した今までの生き方を踏まえて、これからの生き方を模索していかなくてはいけない。今回述べた信仰について、次回の記事では詳しく考えてみたい。