芸術は説明できない
ずっと以前からもどかしかしいと思っていた。
自分が感動した素晴らしい小説・映画・音楽について誰かに説明する時、どんな言葉、身振りを使って表現しても、その素晴らしさを説明できた気がしない。
味わった感動を言葉にしようとして感動の具体像を追いかけると、手を伸ばせば伸ばすだけ遠ざかり、しまいには一体どんな感動だったかさえも霧消してしまうというもどかしさを繰り返した。
例えば、文庫本の裏表紙によく書いてある小説のあらすじはその小説の魅力を伝えるだろうか?裏表紙のあらすじを読んでその小説のことをわかったと思う人は少ないだろう。
そんなもどかしさの理由を説明した文章を保坂和志さんの本にみつけた。
「本当の小説とは、その小説を読むことでしか得られない何かをもっている。小説だけではなく、優れた音楽や美術など、芸術とはすべてこういうもので、それらに接した時の『感じは』、私たちが普通に使っている言葉では説明できない」『書きあぐねている人のための小説入門』保坂和志
保坂さんが語っているとおり、ある芸術を他の方法で説明することは不可能なのだ。
例えば、夏目漱石の『こころ』は、文字を始まりから終わりまで順序通り追っていくことでしか理解することはできない。
他の表現手段(音楽、絵、概念図、あらすじ)で説明したなら、その時点で『こころ』とは異なるものになってしまう。
ある芸術を他の形式で表現することはできない。
それでも誰かに好きな作品を紹介したいと思うのなら、あらすじやテクニカルな解説をするよりも、自分が読んでいて感情をどう動かされたか、行動がどう変わったか、ということを「とても素晴らしいんだよ!」という熱意をもって語ることが最も良い手段だろう。ただ、それでももどかしさを払拭することはできない。