西野カナは天才か
去年、一昨年と紅白歌合戦をみていて気になったのが西野カナだ。一昨年は「Darling』」、去年は「トリセツ」を歌っていたが、二曲とも素晴らしい歌だと思った。他の紅白出場の若手歌手とくらべても特に新鮮な感動を覚えたのを記憶している。
しかし、西野カナの歌詞は、「出来合いのファーストフード」、「薄っぺらい」(西野カナ - Wikipedia)といった批判を受けており、作詞能力がないという否定的な意見をもつ人(アンチ)が多いことで有名だ。
僕は、紅白で披露した曲を観る限り決して作詞能力がないとは思えない。果たして西野カナの魅力とはなんなのか、そして本当に作詞能力がないといえるのか考えてみる。
マツコ・デラックスが西野カナを批判している動画を観たことがある。マツコ・デラックスの発言に共感する人達が多いことから、彼女のアンチの意見は、ボキャブラリーの少なさ、ストレートな歌詞が幼稚、というものが主だと思われる。
以下の記事では、スピッツの「空も飛べるはず」と比較して、西野カナのオリジナリティーのなさを批判している。
たしかに、草野マサムネの書く歌詞は文学的で、彼のフィルターを通した言葉で語っているといえるだろう。
だが、草野マサムネの歌詞は、何度も聴いて歌詞カードをみて考えてみないと意味するところはわからない。反面、西野カナの歌詞は、一聴しただけで伝わる。
一聴しただけで理解できる歌詞を薄っぺらいということはできる。
しかし、彼女のリスナーである10代20代の若い女子は、そのような一聴しただけでは理解できない文学的な歌詞を必要としているだろうか?また、現代の情報過多の時代、何度も歌詞を聴いて考えるリスナーはどれだけいるだろう。
つまり、西野カナの歌詞は、マーケット層に適した歌詞だと言える。
彼女の歌詞は若い女子が共感する内容で溢れている。例えば、「トリセツ」をきいてみても、すべてのセンテンスは誰かが抱いたことがある感情をモチーフにしている。彼女は自らのマーケット層の感情を的確についた歌詞をかいているのだ。
西野カナは、草野マサムネのような圧倒的な才能をもった天才といった立場ではなく、どちらかというと代弁者という立場だ。なぜ代弁者を必要とするかというと、リスナーがうまく表現できない感情を、代弁者が表現することで、感情を発散させた気になるからだ。また、共感者を得たように感じ安心感を覚えることができる。
「トリセツ」は、自分の性格を取り扱い説明書にたとえ、彼氏・夫への愛を表現している。僕は以前NHKで、自閉症の娘をもつ父親が、娘の結婚相手や職場の同僚に娘の”扱い方”を書いた資料をつくっているという内容の番組をみたことがある。父親が自分の娘を卑下してそのような資料をつくっているわけでは決してなく、娘が社会で生きやすくなるために、愛をもって特徴を記しているわけだ。
僕はこの”扱い方・説明書”で自分の性格を表現する手法は、人とのコミュニケーション、特に恋人といった親密な相手に対してとても有効だと思った。
西野カナがこの番組をみて「トリセツ」の歌詞のテーマを思いついたかどうかわからない。しかし、「トリセツ」を聞いた時、西野カナはうまいことやるな!と感激した。彼女は、リスナーの心に響く歌詞をつくる努力をしている、と感じた。
西野カナの歌詞はたしかに文学的・天才的なものではないかもしれない。だがリスナーの感情に響く歌詞をちゃんと書いている。そつなくリスナーが求めるものを提供しているという点で、彼女は作詞のプロといえるだろう。
最期に。
言葉は時代によってかわる。
よく年配の方たちが、若者言葉を揶揄して正しい言葉づかいじゃない!と怒る光景をみかける。
だが果たして正しい言葉遣いなどあるのだろうか。
年配の人達が正しい言葉遣いと言っているのは、彼らが生きた時代に習い、通用した言葉であって、正しい言葉というわけではない。古文が正しい日本語と言うひとはなかなかいないだろう。結局、若者言葉と年配の方がいう正しい言葉づかいの違いというのは、今つかわれているか昔つかわれていたかの違いにすぎない。
言葉はコミュニケーションのツールであって、コミュニケーションが成り立つのであれば、どんな言葉だろうがかまわないのだ。
僕は、西野カナを新しい文芸表現の開拓者だと思っている。
単純でストレートな語彙をうまくストーリにのせることで、難しい言葉を用い回りくどく表現する他のアーティストよりも、聴衆の感情を揺さぶることに成功している。
彼女に対するアンチが多いのはそれだけ時代を先行しているからだと言える。
マツコ・デラックスは西野カナを中島みゆきと比較して酷評したが、
僕は、西野カナは中島みゆきにひけをとらない、むしろ同じように才能ある気鋭の表現者だと思っている。