地図とコンパス

人はときに美しいと思える瞬間に出会うこともあります。人生の地図とコンパスをつくっていきましょう。

蜂蜜パイ―神の子どもたちはみな踊る / 村上春樹【本の紹介】

これまでとは違う小説を書こう、と淳平は思う。夜が明けてあたりが明るくなり、その光のなかで愛する人々をしっかりと抱きしめることを、誰かが夢見て待ちわびているような、そんな小説を」*1

村上春樹にしては珍しく、まともな世界のまとも(?)なラブストーリーを描いた短編。村上春樹らしい設定だけど(例:主人公が努力せずに友人や女性に恵まれている・都合よく環境が好転するなど)、意味深で象徴的な台詞や展開が出てこないためすんなり理解しやすい。最後はわかりやすいハッピーエンドで終わる。

この短編を読んだ大学生の頃はすごく共感できたし、自分は村上春樹と似たタイプの人間なんだと思った。本当は自分にも同じ権利があるのに、何事も受け身な自分は思い通りに事を進められず、積極性のある他人になんでも先に持っていかれてしまう。そうしているうちに自己卑下が進み人生で起こることすべてに消極的になる。高校や大学時代の自分がそうだった。おそらく村上春樹も同じ経験を結構長期間にわたって味わってきたことがあるのだろう。でないとこんな小説を書けないし書きたいと思わない。僕は結末に出てくる冒頭で引用した言葉で夢を見て希望をもらい、良い小説だと感じた。

しかし、最近になって読み返すとこの小説はある意味とてもキモチワルイ物語だと思うようになった。逆に今でもこの小説を“良い”と感じるのなら僕は大学生時代から一歩も前に進んでいないことを意味する。主人公は物事を好転させるために何も努力していないし、ハッピーエンドの先にある問題(沙羅を含めた家庭)について何も考えない。本当は自分と彼女は両想いだったのに……と悲観しながら生きることは、すごくキモチワルイことだ。だって、小夜子が自分を好き(だった)かどうか自分は確かめもしていないし、自分の気持ちを伝えていもいない。ありもしない妄想をして一生悲観し続けているのと同じことなのだ。

この小説への共感が許されるのは、前途にまだ希望をもつことができるモラトリアムの期間だけだ。その期間なら、この物語に共感し涙を流すことだってできる。しかし、人生の行き先の狭まった者にとっては、主人公の自己卑下と悲観がナルシシズムからきていることがわかりキモチワルさを感じてしまう。

といっても、この小説がなぜ今でも僕の心を動かし最後まで読ませる力をもっているかというと、それは村上春樹の圧倒的な文章力があるからだ。キモチワルさを感じながらも共感し、結末で強烈に幸福感を感じさせてしまう春樹の才能に脱帽してしまう。

 

ところで「ディセンシー」ってなんだろう。

 

 

神の子どもたちはみな踊る (新潮文庫)

神の子どもたちはみな踊る (新潮文庫)