地図とコンパス

人はときに美しいと思える瞬間に出会うこともあります。人生の地図とコンパスをつくっていきましょう。

「17歳の地図」③ 17の憂鬱

”17のしゃがれたブルースを聴きながら”

なんともいかした(うがってみれば厨二病的な)科白で始まる。しゃがれたブルースというのは、タバコが原因で嗄れた、もしくは桑田佳祐ぽくかっこつけてしゃがれた声でうたっている自分の声、ということか。

”街角の俺たちの頑なな心と黒い瞳には悲しい影が”

ここで「俺」という一人称ではなく「俺たち」としている。”愚痴をこぼせばみんな同じ”ことをいうように、彼らの仲間は楽しみも寂しい影(憂鬱)も共有していたということだ。

彼らの憂鬱とは一体なんだろう。

”親の背中にひたむきさを感じ”始めた、ということは、社会で生き、自分たち子供を育ててきたという裏にはたくさんの苦労があったということを知り始めたということを意味している。

いままでは学校で生き、先生や校則で縛られた生活をしていて、ただ”一時の笑顔を疲れも知らず走り回って”いたけれども、

「おや、大人として生きるというのもいいものじゃなさそうだぞ」

と気づき始めたということか。

そんなことを考え始めると、”なんのために生きているのかわからなくなる”。

 そんな自分を、”この街”は進んで受け入れてくれそうにない。だった、大人たちの様子をみていると決して楽しそうじゃないから。

彼らの憂鬱とは、学校に縛られた今から解放されても後に待ち受ける社会に対する不安ということだ。

 

 

 

「17歳の地図」② 尾崎豊はただの悪ガキ?

「17歳の地図」は1983年に発売されたアルバム「17歳の地図」に収録されている。これが尾崎豊のファーストアルバムだ。

このファーストアルバムには彼の有名どころの曲がたくさん入っている。ちなみに彼はこのとき18歳だったのだから、ジーニアスぶりに驚く。

1983年は、刑法犯の少年犯罪が最も多かった。また、学校の暴力事件もこの頃がピークだったらしい。

つまり、不良全盛期。

くわえタバコ、街角で自分を売る少女、そんなのは今どきあまりみかけないから(たぶん)時代を感じる。

この曲の歌詞をみていると、客観性を感じる。となると、悪ぶった行動もファッションだったのだ。

ファッションとしての不良文化。人間の行動なんて流行り廃りにすぎない。

尾崎豊は客観性をもっていた。そして、客観から感じる自分たちのおかしさ、たまにセンチメンタルな気分になる十代の心情を表現する力をもっていた。だからメジャーで売り出される曲として成立している。

尾崎は仮面を被った不良少年だ。繊細で知的な内面をもっていながら、世の中に振り回されていたのだ。

 

「17歳の地図」① 尾崎豊はただの悪ガキ?

中学の頃はわからなかった。

でも高校生になると、すごさに打ち震えた。

 17歳の地図の歌詞は、尾崎豊の曲の中では大衆に伝わりやすい方だと思う。

だけど、今まで僕の経験上、同級生はじめ若い人の間でこの曲を知っている人はほとんどいなかった。

前半は、「15の夜」みたいな悪ぶった歌かと思いきや、後半にいくにつれてセンチメンタルな雰囲気になっていく。

尾崎豊が「ただの悪ガキじゃないんだぜ」、といっているよう。

そこがたまらなくかっこいいと感じた。

この曲をいろんな人に知ってもらいたい。だから僕はよくカラオケで歌う。

 

十七歳の地図

 

 

僕は僕であることから逃れることは出来ない (無聊)

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今の苦しみから逃れる事はできない。

自分ではない人間になることは出来ない。

自分の現状を受け入れる事しか選択肢がない。

生きるか死ぬか、は選択肢があるからまだマシだ。

僕は僕であることから逃れることは出来ない。

ハイデガーも同じようなことを言っていた気がする。

すべてはゼロイチになる

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人が撮る写真の枚数は指数関数的に伸びている。

おそらくiphoneの登場によって加速度的に伸びているだろう。

写真は整理されたデータといっても、エントロピーが増えていることには違いない。

動画に比べれば静止画はまだマシだ。

聞くところによるとyoutubeでは毎分400時間分の動画がアップされているそう。

そのうち地球はゼロとイチで埋め尽くされてしまうんじゃないかと心配になってくる。

といっても、僕もそれに加担している一人である。

全宇宙のアナログのデータ量というのは計算できるものなのだろうか。

 

嘘と資本主義

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 嘘をつくのは悪いことか、良いことか、

その判断を行うのは難しい。

問題を少し変えて、ひとついえることがある。  

 

嘘を付いて生きるのはストレスだということ。  

 

嘘をつけば、そのことを自分で気にする。

ばれないように行動しなくてはいけないから。

頭に入れておかなければいけないことが増えていく。

嘘が良くないと言われるのは、嘘は自分にとってプラスにはならない、という先人の知恵でもある。

 

ビジネスでは嘘はつきものだ。

「来年度は売上二倍にします」

「このプロジェクトに投資すればリターンは数億ですよ」

「昨年度比30%減のコストダウン達成しました」

「そのお洋服お似合いですよ」

嘘は欲望を刺激させ、人を消費や投資に向かわせる。

消費と投資がなければ資本主義は存在しない。

嘘はビジネス社会における着火剤のようなもの。

現代社会が生きづらくストレスフルな理由のひとつは、

嘘をつくことを賛美され必要とされるところにある。

 

固陋 narrow-minded

たまに思うことは、

人のアイデアを素直に受け入れられない人がいるんだな

ということ。

 

本を読んだり、講義を聞いたりしたあとに、

うさんくさい、めんどくさい

と言って著者や話者の言ったアイデアを否定する。

 

プライドがそうさせるのか、変化を拒む気持ちがそうさせるのか、

僕にはよくわかっていないけれど、

人のアイデアに対してまず否定から入って、受け入れないというのは、

もったいないなと思う。

もちろん、他人の言っていることを鵜呑みにするのはよくない。

他人のアイデアに視点の欠けている部分はもちろんあるだろう。

だけど、頭から、自分の思考や行動に一切介入させない、寄せ付けないという

姿勢はよくない。

そういう人は、周りの環境が変わっていったときに、対応できない。

自分で自分の首を締めているようなものじゃないだろうか。

 

 

生きることは日々を告白することである

尾崎豊の言葉。

日々を告白するってどういうことだろう。

彼は毎日ブログを書いていたとか。

ブログなんてその時代にはなかったよ。

告白とは、好きな彼女に告白するってこと?

主語が日々になっているので愛の告白とは違う。

教会でする懺悔のことだろうか。

尾崎豊は毎日、自分の悪い行いを悔いていたということか?

彼は完璧主義者だったのかもしれない。

理想とは違う自分に不甲斐なさを日々感じていたのかもしれない。

もしくは、わかっちゃいるけどやめられない、欲望に対するものか。

太宰治も似たようなことを書いていた気がする。

生きることを懺悔の日々と言った尾崎豊は、

幸せをどのように見出したらよかったのだろう。

 

放熱への証

人は自分の見たいように現実を見る

 

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知人がそっけない態度をとった。

なにかしたかな?

一ヶ月前、馬鹿だなと言ったからかな?

LINEで既読スルーしたからかな?

僕が知人の行きたかった北海道に言ったことが

共通の知人を通してバレたのかな。

ああ、やはり知人は

北海道に行きたいわー

って嫌味っぽく言ってる

やっぱりそうなんだ。。。

 

人は自分が想像したとおりになるように現実の辻褄を合わせる。

特に、心配事は、タネが見えだすとどうしてか増幅させようとする。

人間はネガティブな想定をするようにできているんだろうか。

はっと、気づくことができれば、

なんだ全然関係なかったじゃん、てなる。

はっと、なれるうちは健常だ。

 

春秋に富む

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冬の終わりにも独特の空気がある。

暖かさに向けて少しの楽しみと、少しのさみしさ。

暖かいとこんなに体も気分も軽やかになるのかと驚く。

そういえば卒業の時期はこんな空気だったなと、情景がうかんで懐かしい気分になる。

 

今日、上司にこんななことを言われた。

「お前はあと三十年も働くのか。考えただけで気持ち悪くなるだろう」

なぜわざわざモチベーションをさげるようなことを言うのだろう。

僕はこういう年のとり方をしないために生きていく。

【世界はどうなっているのか】2−5 量子力学

僕らの世界がどうなっているのか知るためには、宇宙スケールの法則を調べるだけでは足りない。

光の速度の世界では、僕らの感覚の世界とはかなりちがってみえることはわかった。同じように、極小の世界をみてみると、常識とははなれたとんでもない世界が広がっていたのだ。

 

二重スリット実験。

初めてこの実験の話を聞いたとき、背筋がゾッとするような感覚になったのを覚えている。知ってはいけないことを知ってしまったような恐ろしさを感じた。

様々なところで語られているので、ここでは簡単に二重スリット実験について説明する。

2つのスリットの空いた板の向こうにスクリーンがおいてある。そのスリットに向かって電子銃で電子を投げつけてスリットを通してスクリーンに当てる。

 

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図1 二重スリット実験(二重スリット実験 - Wikipedia)

 

電子一個をなげてみる。

するとスクリーンには電子一個が検出された。

ということは電子は粒子なのだろう。

 

電子を一個ずつ大量になげつけてみる。

想定通り、スクリーンには電子が次々と検出される。

いや、まて。よくみるとスクリーンに検出された電子は模様になっている!

 

その模様は干渉縞と呼ばれるものだった。この干渉縞というのは、波が2つのスリットを通り抜けたときに重なり合ってでてくる模様だ。水面に2つの石を落としたときの波をイメージするといい。

波!?

一個の電子がどちらかのスリットを通っていったはずなのに、なぜ波がスリットをぬけたときの干渉縞が現れるのだ!?

 

ちなみに、2つのスリットのうちどちらのスリットを通ったのか観測できるようにしてしまうと、干渉縞はあらわれなくなる。

 

この実験には種明かしはない。

詳細は省かせもらうが、この実験からわかったことは、

①電子は粒子でもあり波でもある。

②一つの電子は2つのスリット両方を同時に通りぬけたように干渉をおこす。

ということ。

 

この実験では電子をあつかったが、他のとても小さい粒子や光でも同様の結果を得られる。このような粒子を量子とよぶ。

量子のようなとても小さい世界では、物質は粒子でもあり波でもあるのだ。

 

結果②が示すのは、粒子は観測するまでは確率のように存在しているということ。

スクリーンにぶつかったときのように観測したときは粒子としてどこかに現れるが、観測されていないときは、空間に確率の波として存在している。

 

その確率の波を求めるときにつかうのがシュレーディンガー方程式だ。

ニュートン運動方程式が物体の位置や速さを決定するように、量子の世界ではシュレーディンガー方程式が量子の位置や運動を決定する。しかし、シュレーディンガー方程式の解が示すのは波動関数という確率だ。

 

量子力学では不確定性原理という基本原理がある。

不確定性原理は、位置と運動量は同時に決定することはできない。というものだ。

これは、先に述べた量子の粒子と波動の二重性から数学的に導かれる。

 

不確定性原理だけ聞くと、「量子の位置と運動量はある時点でたしかに決まっているが、人間はそれを観測することはできないということか」と思う。

しかし、シュレーディンガー方程式は、「量子の位置と運動量はほんとうに決まっておらず、観測した瞬間に決定する」ということを示している。

この事実は、ぼくたちの世界観にものすごい影響を与える。

 

僕たちのからだも、建物も、どんどん細かく見ていけば、小さな粒子(量子)でできていることが科学的に示されている。ということは、量子の位置や運動量が確率のように表されるというのなら、僕たちのからだや建物も、確率で表現されるような存在だといえてしまうということだ。

このような考えで、シュレーディンガーの猫という思考実験や、多世界解釈などの解釈問題たちが発生していった。

アインシュタインは、「神はサイコロをふらない」といって世界の確率解釈を否定したことで有名だ。

量子力学から導かれる、世界はどうなっているのか、という解釈は、未だに議論される。人間にわかっているのは、シュレーディンガー方程式は、波動関数という、世界の現象を極めて正確に表す解を導き出すということ。波動関数はどんな世界を表しているのか、と考えることは哲学の領域に入る。本当に世界はなにもかも決定されていないのか、多世界が存在しているのか、そんなことは科学で実際に確かめることができないからだ。

そうはいっても、量子力学の有用性が長い間疑われないということは、波動関数は世界を正しく表しているということだろう。つまり、この世界は人間の常識で考えるよりはるかに奇妙で謎にみちているということだ。

 

参考文献

単位が取れる量子力学ノート (KS単位が取れるシリーズ)

哲学的な何か、あと科学とか

二重スリット実験 - Wikipedia

【世界はどうなっているのか】2−4 時空

移動すると時間・長さ・重さが変わるんだって!アンビリバボー!

 

特殊相対性理論は僕たちの常識からするとおとぎ話のようなことが実際におこっていると言って世界を驚かせた。

 

アインシュタインは飽き足らず、一般相対性理論という古典物理の金字塔を打ち立てた。

 

一般相対性理論をざっくり一言で言うと、

質量は、空間を歪めるよ!光も歪んだ空間に沿ってまがるよ!

という感じだ。

 

ニュートン力学では、万有引力の法則に2つの物体の質量を代入する。光のような質量のないものは引力が働かないと考えられていた。

 

アインシュタインは加速度のある系で光のふるまいを考えるために、加速度のある状態と重力のある状態は同じである(等価原理)ということを前提に考えた。

 

等価原理にしたがうと、落下するエレベーターにはいってきた光の道筋を考えたときに、光は重力加速度に従って落下するという結論がでてくる。

 

質量のない光が重力で落下するなんておかしいじゃないか!万有引力の式にあてはまらないぞ!

 

光は重力の「力」が働いて落下するわけじゃなかった。

 

重力は、電気力線のように、空間を歪めている。光は歪んだ空間に従って進んでいるだけなのだ。

光が曲がって進む、ということは、場所によって光の進む距離が違うことになる。光の速度は秒速30万キロメートルで一定なので、時間がゆっくり進む場所があることになるのだ。

 

世界に関する驚きの事実が明らかになった。

 

空間と時間は質量の作り出す重力(重力場)によって変化する。

 

僕らの生活のスケールでは長さも時間を変化するようにみえないが、宇宙のスケールでみると、たしかに、長さと時間は変化しているのだ。

3次元座標に変化する時間軸をいれた4次元世界を時空と呼ぶ。

 

光に近い速さで動く素粒子からみると、時間は伸びまくり、進行方向の空間は縮みまくっている。

太陽のような大きな星の近くでは、直線が曲がり時間はゆっくり進んでいる。

 

世界は時空だったのだ。

 

<参考文献>

まんがアトム博士の続相対性理論

ファインマン物理学〈1〉力学

EMANの物理学・相対性理論・結論から始めよう

http://eman-physics.net/relativity/from_conc.html

【世界はどうなっているのか】2−3 光の速さで走ったときのほんとうの世界

ニュートンの力学は世界をすべて記述したかにみえた。

しかし、常識はまたも覆されたのだった。

 

天才ときいてアインシュタインを思い浮かべる人は多いだろう。

天才は必然であるというように、アインシュタイン相対性理論を発表しなくても、相対性理論はかならず発見されただろうと言われる。しかしそれは一人の手によってかはわからない。アインシュタインは一人で常識を覆し一人でひとつの壮大な理論体系をつくりあげた。ゆえに天才と呼ぶ人が多い。

 

相対性理論theory of relativity)の「相対」はどういう意味なのか?

ニュートンの書いたプリンキピアという本に、絶対空間と絶対時間というのがでてくる。それら絶対空間と絶対時間が意味するのは、世界は絶対に動かない空間と、絶対に変わらない時間というものを想定することができて、位置と時間を正しく知ることができれば、いつでもどこでも運動をきじゅつするこができるよ!ということ。

勘のいい人ならここでお気づきだろう、相対性理論の相対とは、ニュートンの絶対に対する意味だ。つまり、位置と時間は絶対ではないということ。

ニュートンが唱えた絶対空間と絶対時間という思想は間違っていることが示されたのだ。

 

ニュートン力学にほころびをみつけるように、奇妙な発見があった。光の速度はいつ測っても秒速30万キロメートルで、世界でこれ以上速いものはないようだということ。

 

例えば、ニュートン力学では、宇宙船にブースターをどんどんつなげていけば、足し算するように速度はあがり、理論的には無限の速さの宇宙船をつくるころができる。

 

だから、地球の公転や自転をかんがえると、どんなときも光の速さが変わらないというのは、おかしなはなしなのだ。

 

アインシュタインがすごいのは、当時の常識にとらわれず、確かな現実から理論をつくりあげようとしたこと。

光の速さが一定ならば、それをもとにして時間、長さ、重さを考え直そうじゃないか!と考えたのだ。

 

速度一定にするためには、時間または長さは伸び縮みしなければいけない。光の速さを超えることはできないのならば、ニュートン運動方程式から、質量も変化している可能性がある。

 

アインシュタインはまず、相対的に運動する世界で考えてみた。相対的に運動する世界とは、例えば移動する二人の人間がすれちがったときにお互いがどうみえるかという話。

僕に向かって知人Aが光に近い速さで向かってきたとしよう。すると知人Aは縮んで見え、時計はゆっくりすすんでいるようにみえ、体重は普段よりおもくなっているようにみえる。反対に知人Aからみても僕は同じように縮んで見え、時計はゆっくりすすみ体重は増えてみえる。

このような相対運動する二人が光の速さですれ違ったときにおこる長さ・時間の伸び縮みは、光の速さが一定であると考えたときの簡単な三角関数から導き出される。

光の速度を超えることはできないという前提に立つと、ある宇宙船は、速度が早くなるにつれて、どれだけエネルギーを与えても加速していかない状態になる。ニュートンの第二法則(F=Ma)より、質量が増加していき、加速度が上がらないと考えた。これが、エネルギーが質量に変換されることを表す、有名なEmc2である。

 

これらの結論は、慣性の世界、つまり加速度のない状態で適用される。僕たちの世界はいつも重力という加速度がかかっているので、加速度のない状態=特殊だとして、以上の結論は特殊相対性理論と名付けられた。

特殊相対性理論が示したのは、私達がいつもおなじだと考えていた長さ・時間・質量は、見る立場によって自在に変化するものだということだ。だけど、僕たちの普段生活する世界では、その変化があまりにも小さいため、ほぼ気にする必要はない。

 

アインシュタイン特殊相対性理論の論文を発表したのは26歳の頃。その10年後に、加速度のある世界へと理論を拡張した一般相対性理論が発表される。

 

【参考】

アトム博士の相対性理論

https://www.amazon.co.jp/まんが・アトム博士の相対性理論/dp/488593141X

ファインマン物理学 力学編

https://www.amazon.co.jp/ファインマン物理学%E3%80%881〉力学-ファインマン/dp/4000077112

 

【世界はどうなっているのか】2−2 ニュートン力学

高校物理は嫌いだった?

僕は数学的になんとなく理解できたからよかったが、正直、いきなり等速直線運動とか慣性の法則がでてきて、なんのこっちゃさっぱりだったのを憶えている。

 

ニュートン力学の法則

慣性の法則

F=d/dt(mv)

③作用反作用の法則

 

ニュートンの運動の法則は、世界というのはなんとも単純な法則の上に成り立っているということを示した。

二次元上、つまり一直線に運動する物体を考てみる。

まず第一法則に従えば、加速度があるかないかによって運動を区別できる。逆に言えば、加速度のあるなしによってしか、物体の運動の種類を区別する必要はないという、シンプルな考え方だということ。静止していようが等速で動いていようが加速度がなければおなじだということ。

第二法則Fmaという式が示すのは、加速度のある系にしか力は働いていない、ということ。等速直線運動をしている物体は、動いているようにみえるのにとまっている物体とおなじように力を受けてはいないという、おどろくべきことを言っている。

第三法則によれば、物体は(重力を除けば)接しているものからしか影響をうけないということ。重力はすべての物体に働くので難しく判断する必要はないし、接する物体からしか働きを受けないというのはものすごくわかりやすい考え方だ。たくさんのボールが直線上にあったとしても、あるボールの隣りにあるボールのみをみればよいというすごく楽ちんな考え方だ。

 二次元上で考えるとき、向きは一方向しか考えなくて良く、第二法則と第三法則で、全ての運動を数式で記述できることになる。

 

ニュートンの運動法則は私達の身の回りにあるものだけでなく、地球や月などの惑星にも適用できた。ケプラーは惑星の運動にはわたしたちの日常とはちがう特殊な法則があると考えたが、ニュートンは、私達の身の回りと同じ法則によって動いていること(世界の一般法則があること)を示したのだ。

ニュートンの功績は、当時において「数学で世界を支配する法則を示した」という点にある。もはやこれ以上物理で新しい発見はないだろうという諦めすら生んだのだから凄まじい。

流体力学オイラーの法則やナビエ・ストークス方程式、熱力学の分子運動論も、おおざっぱにみると、ニュートンの法則を流体や熱に適用したものといえる。高度な数学技法を用いて解析力学というものができたが、これはニュートン力学の思想を他の方法で記述したものに過ぎない。

ニュートン古典力学の考え方は世界を網羅するかにみえた。

 

ちなみに蛇足だけど、ニュートンはかなりの変人としても知られている。変人だったときくとなんか和むのは僕だけだろうか。

【世界はどうなっているのか】 2−1.宇宙は数学で書かれている

ガリレオ・ガリレイは「宇宙は数学の言葉で書かれている」と言った。

数学で書かれている?そんなこと知ってるって?

中学校で物理を習う恵まれた僕らは、自然が数式で記述されることに馴染みがある。

しかし、ほんの数百年前までは、自然界で起こるさまざまなできごと、月が回る、物が動く、なんてことが数学なんていうもので掴み取れるなんて考えられていなかった。

雨を降らせるための儀式、生贄などに思い当たるように、自然をコントロールするためには宗教が必要だと信じられてきた。自然は神がつくりたもうたものであり、それを詳細に調査し、人間の理解できる言葉で記述しようなんて、できるわけがないと思われていた。

そして数学は、三角形や平行線の定義を記述するようなもので、数奇者の道楽、日常の役に立つ代物ではなかった。

数千年いや数万年もの長い間、人間は数学というもので自然を記述することができなかったのに、なぜガリレオは「宇宙は数学で書かれている」と言うことができたのか。

よく言われる、「天才は必然である」ということ。時代がガリレオを天才にした。新しい思想の潮流が地動説を生み出し、占星術師たちの積み重ねた数学技法が土台をつくった。時代がたまたまガリレオを選んだとはいっても、ガリレオが偉大なのは、当時の常識にとらわれなかったこと。かつて古代ギリシャがおこなったように、自らが実験を行ってたしかにわかることを主張しようとしたことだった。

 

かくして、古代ギリシャ以来、世界に目を向けることのなかった人類は、世界はどうなっているのか、という問いに挑戦し始めた。