地図とコンパス

人はときに美しいと思える瞬間に出会うこともあります。人生の地図とコンパスをつくっていきましょう。

【本の感想】暇と退屈の倫理学 /  退屈という疑問と戦う人の記録!

あとがきで國分功一郎さんが自分で書いているように、この本は著者である國分功一郎さんの、人生の疑問の一つに対する戦いの記録ともいえる大作だと感じた。

 

自分の人生をかけて極めてきたことを本にして表現したい、世に残したいと、人は思う。そして、実際に作者が人生をかけて追求してきたことを熱く語る本は面白い。

僕は過去にそういう本を何冊か読んできて、実際に面白いと感じてきた。たとえば、前野隆司さんの「脳はなぜ心を作ったのか」や、田中和明さんの「金属の基本がわかる事典」などなど。

 

「暇と退屈の倫理学」は、國分功一郎さんがずっと疑問を感じてきた「退屈」について、哲学者となり知識という武器をてにいれて正々堂々と考察した記録だ。加えて、哲学するという行動を読者にさらし、わかりやすく、読者自身が読みながら哲学をできるように書かれている。こんなにおもしろい読書体験をできる本はなかなかないと思う。

 

 以下自分メモ

 

人間の不幸と快楽について

・人間の不幸は、部屋でじっとしていれば起きない。でもできないのは退屈するからだ。こんな人間は惨めである(パスカル

・人は快楽を求めているのではなく、今日と昨日を区別してくれる事件(興奮)を求めている。

 

人間が退屈する理由

・ 400万年前に初期人類が出現してから1万年前のあいだまで、人類は遊動生活をしていた。しかし、氷河期が過ぎて中緯度が温帯森林環境になると、食料貯蓄が必要となり、定住生活を強いられるようになった。定住した人類は情報処理能力をもてあまし、退屈に悩まされるようになった。

 

ポストフォーディズム

・フォードは15年間同じモデルの車を売り続けた。一方ポストフォーディズム、現代の消費=生産スタイルは、いかなる製品も絶えざるモデルチェンジを強いられる。モデルチェンジが激しい場合、設備投資が難しいため、人間が生産を行う。また、どれだけ売れるかわからないのでフレキシブルな労働力が必要である。これがハケンを産んだ。

 

浪費がない資本主義社会

ボードリヤールは消費とは観念論的行為と言った。消費では、モノは記号になる。消費は記号を受け取る行為だ。

・映画「ファイトクラブ」の主人公はブランド品を買い漁る。しかし彼は消費はしていても浪費をしていない。彼は記号をうけとらされている。

・現代人は終わりなき消費のゲームを続けている。しかも自分でそのサイクルを回している。現代人は本来性なき疎外状態にある。

 

ハイデッガーの「形而上学の根本諸概念」

・退屈の第一形式:思い通りにならない時間にひきとめられている(日常の仕事の奴隷になっているため、時間が惜しい)

・退屈の第二形式:気晴らしの中であらわれる退屈

・退屈の第三形式:なんとなく退屈(広域に放置された感覚。自由であるがゆえ)

・人間は第三形式から逃れるために第一形式に逃げ込む→消費社会

・人間であるとは、第二形式を生きることである。

 

結論

・読者自身が退屈との付き合い方を切り開く必要がある。

・浪費する。つまりものをものとしてうけとる。「人間であること」

・なにかにとりさらわれること。「動物になること」

・「人間であること」を楽しむことで「動物になること」を待ち構えることができる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

生きる意味とは何か?という問いに対する答えをまとめてみる

 

人間の生きる意味って何?という問いは誰もが抱くでしょう。

古今東西、数多の哲学者、思想家がこの問いに答えようとしてきました。

しかし、この問いの答えは未だに議論され続けています。

 

僕も、自分に生きる意味があるのか?という疑問は幼い頃からずっと抱いてきました。

学生時代は、書物の中に答えがあるのではないかと、それなりに書物を読んできました。

若い頃は、この問いに答えなければ、この先生きていくことなんてできない!と考えるほどの危機感をもってしまっていました。青年期特有のはりつめた不安です。

ある程度歳をとってくると、このような哲学的な問いを、それほど深刻にならずに肩の力を抜いて考えることができるようになってきました。

そこで改めて、生きる意味とは何か?という問いに対する答えを考えてみたいと思います。

まずは世間でよく言われる回答を簡単にまとめてみました。まだまだ今後詰めていく予定です。

もっと網羅的に系統的に(いわゆるMECEに)整理したいので、ご意見があれば遠慮なくお願いします。

 

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【本の紹介】コンビニ人間 / 村田沙耶香

最近、村田さんの著作にハマっている。

とても読みやすいナチュラルな文体、社会に違和感を抱く主人公。そしてクレイジー。

今まで、最近の作家さんの本は敬遠して読んでこなかったが、ちゃんと現代の日本文学は面白いんだな、というのがわかってよかった。

 

コンビニ人間」。

村田さんは太宰治著の「人間失格」に影響を受けてこの本を書いているんだろうなと感じた。だから、「人間失格」にドンピシャで影響を受けた僕にとって、「コンビニ人間」が面白くないはずがない。

 

主人公は発達障害だ、と言っている書評をみかけた。僕は、この本を障害者が主人公の本なんだという先入観をもって読むのはよくないと思う。世間が「普通」と呼んでいることに主人公が疑問をもつ理由を、主人公が障害者だからという点に求めるのは浅はかだ。

みんながそうしているから、それが常識だから、という価値観で多数派が少数派を排除する構造は差別の始まりだ。「普通」に疑問をもって、異質にも共感できる客観的な視点をもつことは、社会を住みやすい場所にするためにはとても重要な事だ。この本は、社会には、客観性をもたず、知らず知らずのうちに少数派という理由で異質を排除しようとする人間があまりにも多いことを訴えている。

 

僕がこのような社会への違和感を抱えてしまう人の生きづらさを描いた本を読んで思うのは、本を読んだ人が「普通」の普通でなさ、に気づき、他者にもっと寛容になってくれたらいいのにということだ。だから、主人公は発達障害サイコパスという設定だからこんなヘンテコなストーリーなんだという先入観をもって読んでほしくないのだ。主人公、「古倉恵子」はどこにでもいる、だれにでもいる。白羽はただのクズ人間ではなく、確かに彼の論理は正しいのだ。そう思ってみんなが読んでくれたら社会はもう少し寛容になれるはずだ。

 

コンビニ人間

 

【本の紹介】9プリンシプルズ / 伊藤穰一 ジェフ・ハウ

伊藤穰一さんの書いた本格的著作ということで読んでみた。伊藤さんは、学位をもたずしてMITメディアラボの所長になったという異色の経歴の持ち主だ。茂木健一郎さんは、伊藤さんを天才と呼んでいた。僕は伊藤さんには以前から注目していたので、本を読んでみることにしたのだ。

 

読んだ感想としては、非常に示唆にとんでいてウィットな表現が散りばめられた本だった。「はじめに」でも書かれているように、「9つの原理」全体を通して主張の根底にあるのは 非対称性 複雑性 不確実性の3つだ。

 

伊藤さんのブログには何度か訪れたことがあるが、正直いって読みやすい文章を書く人ではないという印象だった。ブログはもともと英語でかかれていてそれを本人または他の人が翻訳しているようだ。思考と専門用語についていけないというのもあると思うがあまり一般人にわかりやすい文章を書くタイプのひとではなさそうだなとは思っていた。

 

しかしこの本は以外に読みやすい。ITの知識がないと難しい部分はあるが、主張と根拠がまとまっているので理解し易いと感じた。文章の雰囲気としてはドーキンスの「利己的な遺伝子」のよう。知的なウィットに富んでいる。

 

9つの原理の根拠に一貫しているのは非対称性 複雑性 不確実性の3つだ。アリは、個別では単純な行動原理で動いているのに集団になると知的な生物のように振る舞う。アリに喩えられるように、インターネットが発達して個人が容易に情報をやり取りできるようになった現代では、技術革新は一部の天才ではなく、複雑性(カオス)からもたらされる。汎用人工知能(強いAI)が有名大学の研究室や大企業ではなく、学生寮の一室で密かに生み出される可能性もあるということだ。このようにどこで何が起こってもおかしくない現代では、固定観念にとらわれることのない柔軟性をもつことが重要だと書かれている。

 

この本に書かれている内容は非常に重要な示唆に富んでいるものの、話が大きすぎて実際に自分に活かせる部分は少ないと感じる。だが、自分にできることが少なくてもこの世界の加速度を減少させることにはつながらないことに気付く。私たち個人の数メートルの範囲内で起こるささいな出来事が複雑性を生み出し、全体を加速させていくから。

 

9プリンシプルズ 加速する未来で勝ち残るために (早川書房)

 

トニー・スタークに学ぶモテる男

いまだに悩む。どうすれば女の子とスマートに付き合えるようになるのかと。

女性と接する時に、ぎこちなさとか嘘をついているような感じを感じることがある。付き合っていない女性でも、付き合っている女性でも感じる。何をどう言っても、どう行動しても払拭できない。女の子と接する時の、このなんか違う感を克服しない限りはモテる男にはなれないのだろうなとはうすうす思っている。

このことで悩んでいる時に、たまたまテレビで放送されていた「アイアンマン」をみて、トニー・スタークのある台詞に、悩みを払拭する鍵をみつけた気がした。

"You know, if I were Iron Man, I'd have
this girlfriend who knew my true identity.
She'd be a wreck, 'cause she'd always
be worrying that I was going to die,
yet so proud of the man I'd become.
She'd be wildly conflicted,
which would only make her more
crazy about me."

http://www.script-o-rama.com/movie_scripts/a2/iron-man-script-transcript.html

 自分翻訳

「もし僕がアイアンマンだったら、その恋人は僕の正体をアイアンマンだと知っていることになる。彼女は気が落ち着かないだろう。だって恋人がいつ死ぬかもわからないんだから。だけど同時に、世界のために戦う彼が誇らしくもある。その狭間で彼女は悩み、どんどん彼女は僕にのめりこんでいく」

 

この台詞は、トニー・スタークの秘書(兼恋人?)である、ペッパー・ポッツの前でいわれる。

ポイントは次の点だ。

・自分の恋人が抱えるであろう悩みをユーモアを交えながらも正直に言うことで恋人の悩みを理解してあげようとしている。

・ペッパーに対して自分は恋人だと言っている。

トニー・スタークは隠そうとしていない。恋人とのネガティブな行末を。

冴えない男だったら、恋人が抱えるであろう悩みを隠そうとするかもしれない。現実に目を向けず、やさしい言葉を言ってその言葉だけで彼女の気を紛らわそうとするだろう。

トニー・スタークは状況を的確に把握して、恋人に嘘をついていないのだ。

また、ジョークっぽく言うことで、場を重くさせていない。嘘をつかずに的確に状況を恋人に伝えたとしても、ユーモアがなかったら気を滅入らせてしまうだけだ。

ペッパーとは公認の恋人どうしではないが(多分)、当たり前のように自分たちは付き合っているという前提にすることで、彼女への思いを伝えている。

そしてなによりも、この台詞を言うトニー・スタークは格好いい

自分の恋人は自分のせいでconflictするだろうなんて、当の恋人の前でなかなか言えない。

この台詞のおかげでペッパーはどれだけトニーへの不信感と不安を拭うことができただろう。

 

以上のようにポイントはいろいろあるだろうが、大事なことは、センスある言葉は男をスマートにみせる、ということだ。

針の穴を通すような絶妙な言葉が、女性と接する時のぎこちなさや嘘をついている感を払拭してくれる。正直に伝えることで、女性の男に対して抱く不信感や不安を拭い去ってくれる。正直なだけではだめで、場を壊さないためのユーモアも必要だ。トニー・スタークのようにはなれなくても、大事なことは考え抜いてセンス良く伝えることができれば、女性とスマートに接することができるのではないだろうか。

 

 

「GRIT やり抜く力」 アンジェラ・ダックワース著 / 本の紹介

 

やり抜く力 GRIT(グリット)――人生のあらゆる成功を決める「究極の能力」を身につける

やり抜く力 GRIT(グリット)――人生のあらゆる成功を決める「究極の能力」を身につける

 

 

本の簡単な要点と感想。

 

◎成功する人に共通しているのはやり抜く力(grit:英)が優れているということ。才能や努力よりもやり抜く力の相関が強い。

 

◎成長思考⇒楽観的⇒やり抜く力

成長思考は固定思考の対義語。才能・知能は生まれながらのものではなく、努力次第でのばせるものだというマインドセットが成長思考を産む。固定思考から成長思考になるためにはは、脳の神経回路の再配線が必要なので認知行動療法が有効である。

楽観思考とは悲観思考の対義語。悲観主義者は苦しみを逃れられないものとして考える。一方、楽観主義者は、苦しみには特定の原因があると考える。悲観主義者の無力感は、「学習性無力感」によって形成される部分が大きい。ちなみに、「学習性無力感」はカマスを活性化させる例で用いられることが多い。(中村一八の知心コラム|リーダーの責務とは|ニューエア

楽観思考は粘り強さを産む。

 

◎やり抜く力を伸ばすためには、

①自分が好きなことに打ち込む。

②意図的に練習する。

③大きな目標をもつ。

④成長思考

大きな目標をもつ人は、幸福度が高いことがわかっている。ここでいう目標とは、人の役に立ちたいという利他主義である。

どんな職種にも一定の割合で天職だと思っている人がいる。自分の天職を見つけることは成功するための前提。

一万時間の練習でも一流と”そこそこ”に別れるのは、意図的に練習をしているかどうか。意図的な練習は決して楽しくはないが、実力を発揮したときの達成感は半端ない。

 

 

成功論を書いた本はたくさんあるが、やり抜く力(GRIT)に焦点を当てて科学実験を基に成功論を書いた本は意外と珍しいのかもしれない。著者はきっと、逆境にめげずに努力してきた人なんだろう。この本は、自分の可能性に希望をもつことができるように書かれている。読んで気分が悪くなる本ではない。モチベーションをあげてくれる本だ。

物事をシンプルに考える事の重要性を最近思っている。天職を見つけることが大事だとわかっていても、大抵の人は賃金、大企業であること、有名であること、恥ずかしくないこと、などを理由に就職活動を行う。天職につくことが成功の条件だと昔から言われているのに、どんな仕事でも天職になりうるのに、他の条件を優先している。また、意図的な練習が必要だと言われているのに、会社の仕事にうんざりしながら、上司から言われた仕事を淡々とこなす日々を過ごし、あわよくば出世しようと考える。僕たちはおもったより物事をシンプルに考えていない。感情やみてくれに流されて、単純なことを実行できていない。

このような本を読み、データに裏付けられた仮説を知ること。物事をシンプルに考えること。そうすればきっと成功できるんじゃないだろうか。

 

 

 

正直言うと、人生はつらいことばかりだ。

正直言うと、人生はつらいことばかりだ。

なぜなら、人間は恒常性(ホメオスタシス)を好むのに対して、外界は常に変化し続けるものだからだ。

人間は体内の環境を一定に保つようにできていることが知られている。外界が変化しても、フィードバック制御を行うことで体内環境は一定に保たれる。しかし、その制御を行う時、人間はエネルギーを必要とする。風邪の時に熱が出るようなものだ。そして人間はストレスを感じる。

精神にも同じことが言えるだろう。感情を制御する脳内物質の分泌が一定に保たれているとき、人間は大きなストレスを感じない。しかし、予期せぬ出来事で脳内物質の分泌量を制御するシステムにノイズが入ると、人間はストレスを感じる。恋人からの突然の別れ話に、ショックを受けない人がいないように。

 

対して、外界(自然界)は変化し続ける。同じ毎日が続くようにみえて、刻々と変化している。科学的には、俗に言うエントロピー増大の法則によっても説明できるし、カオス理論や非決定論によっても説明できるだろう。

人間関係も常に変化する。昨日の上司(部下)と今日の上司(部下)が別人にみえて、大きなストレスを感じることがある。人間は常に変化している。DNAの設計図に従って身体は新しく作り直されている。精神も変化している。睡眠によって記憶が毎日更新されるから。

 

恒常性を求める人間は、変化し続ける世界に生きる限り、つらいことから逃れられない。

だけど、その事実を悲観することはない。恒常性の獲得こそが生きるということであり、人をワクワクさせる原動力だからだ。

 

 

 

清水富美加さんが出家した理由 /  社会への違和感を抱える人

最近、清水富美加さんの”出家”報道が芸能ニュースを騒がせている。

僕は清水さんに対して、バラエティ番組でみせる彼女の言動から妙に親近感を感じていたというか、自分と似た感性をもつ人なんじゃないかと感じていた。なので、今回、幸福の科学という宗教団体に”出家”するという報道を聴いて、「ああ、そういうことだったのか」と少し納得してしまったのだ。僕がなぜ彼女に親近感を感じたのか、そしてなぜ彼女が宗教に入信を決めたのか、僕には少しわかる気がしたのだ。

といっても正直、僕は清水さんの人生や性格に関する”事実”を世間の一般人程度にしか知らない。だからこの記事に書くことはあくまで僕の意見だということを留意していただきたい。ちなみに、僕は何の宗教団体にも属していない。

 

清水さんがバラエティ番組でみせる言動は、なぜ僕に妙な親近感を抱かせたのか。親近感という表現は正しくないかもしれない。「ちょっと変わった感じ」といったらいいのだろうか。表向きには芸人バリのしゃべりのうまさとノリの良さが彼女の特徴にみえる。しかし、彼女の姿勢はどこか世間から離れている。一歩ひいた目で社会を見ているようにみえた。事務所から言われてキャラをつくっていたのだろうが、彼女の心の奥にある反抗心と頭の良さを隠すことはできていないようにみえた。その反抗心と、世間から少し離れている感じが僕に「ちょっと変わった感じ」を抱かせたのだろうと思う。

 

宗教にはまる人というのは、世間からは理解されない。その隔絶は、太宰治の『人間失格』に共感する人としない人の間の隔絶に似ている。僕はなんの宗教にも入信していないが、宗教にはまる側の人間の気持ちはわかる。彼らは、社会に対して常に違和感を感じており、社会に居場所がないと感じている。彼らにとって”死”とは社会通念上において避けるべきものではなく、選択肢のひとつであり、言ってみれば毎日生きる意味をみつけだし生きることを選択している。宗教というのは彼らに生きる理由を与えてくれるものであり、社会において唯一の居場所だとかんじている。宗教団体に入信していない状態であっても、宗教というのは言ってみれば死ぬ前の最期の駆け込み寺であり、普通に社会で暮らしていても、どこか憧れを抱いている。

明確な根拠を言うことができなくて申し訳ないのだが、清水さんは宗教にはまる側の人間だと僕は感じたのだ。バラエティ番組でみせる反抗心と、世間から少し離れている感じがそう抱かせたのだろうと思う。

 

清水さんは仕事に追い詰められていた。社会人として本格的に働き始める二十歳すぎの頃というのは誰にとってもつらい時代だ。僕自身、二十代の前半はあまりの忙しさで毎日死にたいと思っていたし、これから生きていく社会への不信と恐怖に陥り、宗教に出家して生きていくしかないと思い詰めていた。芸能界の忙しさは僕には想像に容易いものではないが、彼女も同じような心境に陥ったのだろう。

彼女にとって幸福の科学はあまりに身近な存在だった。僕は働く場所を変えることで社会への不信と恐怖は、自分の精神がつくりだす一種の幻想だと気づくことができた。しかし、清水さんは気づいたときには宗教団体、芸能事務所、世間の狭間で身動きが出来ない状態となり、その幻想に気付く機会と時間がなかった。

おそらく、幸福の科学に出家しても彼女の人生の問題は解決しない。社会への違和感は人間の精神が作り出す幻想だということに早く気付かなくてはいけない。そして、誰かに生きる理由を提示されるのではなく、自分の意思で、自分の頭と身体を動かすことで、生きる理由を創っていかなければ、社会への違和感を心の底から拭うことはできないということを知らなくなてはいけない。それは宗教に入信してもしなくてもできることだ。今回の出家は、彼女にとってひとつの通過点であることを祈る。

信仰の必要 / ワークライフバランス2

ポケモンGoが配信開始されたのは3ヶ月ほど前だっただろうか。老若男女から普段ゲームをしない人まで、日本中の誰もがアプリをダウンロードしているような過熱ぶりだった。果たして、今、ポケモンGoに熱中している人はどれくらいいるのか?誰かが区切りをつけたわけでもなく、いつのまにか大きな流行は過ぎ去ったようだ。

一定の周期毎に流行りものに食いつき、その時毎に一時的な情熱を傾ける。その対象はスマホゲーム、ドラマ、ゴシップネタなど。大抵の人は、もともと好きだったから情熱を傾けているわけではない。そのときたまたま登場して話題になった、面白くて中毒性のあるコンテンツに群がっている。

家事は楽になり、資本主義経済によりお金が回るシステムをつくることで稼ぐことが楽になり、効率化によって移動時間や待ち時間がどんどん短くなる。また医療技術の進歩で平均余命は伸びるばかり。

生きるために生きる必要がなくなり、余暇の時間を持てるようになったのはいいが、その余暇の時間を、そのときの流行りモノにつかっている。面白かったら食いつき、面白くなかったら捨てる。人間は、このような時間の使い方をするために高度にシステム化された社会をつくってきたのだろうか。

効率化を追求してきた社会で、余剰となった人間の活力と時間はどこに向かうのだろう?僕たちの生産性はきっと百年前の人達よりかなり高くなった。次第に人々は、自分たちのやっていることはお金とものをぐるぐる回しているだけなんじゃないかと気づき始めている。神話に出てくる拷問じゃないが、レンガを積んでは壊すという作業を一生続けているようなものだ。僕たちはなんのために生きているのか、何のために僕たちのエネルギーを使うのか、ということが問われ始めている。

そこで、僕は信仰をもつことが必要なのではないかと考える。社会が効率化を追求する中で、その目的というものが希薄になっている。目的を作り出すために信仰が必要となる。ここでいう信仰とは、絶対神を崇めるというようなおおざっぱなものではなくて、日常生活に目的を与えるようなものーー例えば私は家族の幸せを最優先に考え行動する、私は地球環境を最優先に考え行動するーーをもつことを意味する。

現代の日本では、信仰というとネガティブなイメージをもたれやすい。1990年台のオウム真理教によるテロ行為は、人々に宗教=危険という認識を抱かせた。世界で頻発するイスラム原理主義者のテロも、宗教は人間をコントロールできない状態に追い込むウイルスのようなものだという認識を人々に与えた。

実は、多くの日本人は既に危険な信仰をもっている。先進国の中では図抜けて高い労働時間(残業時間)とそこから発生する過労死問題をみると、日本人は会社信仰あるいは経済信仰のようなものに洗脳されているといえないだろうか。おそらくこの原因は、戦後あらゆる信仰が破壊された状態で、資本主義という信仰が急速に大きなエネルギーで日本全土に広がっていったためだ。いま、日本人は資本主義社会のストレスに苛まされ、増えた余暇の時間までも移りゆく世の中に流されている。

資本主義に代わる、別の信仰がいま必要とされている。資本主義という信仰に、仕事もプライベートも含めて24時間染まるのではなく、少なくともプライベートの時間くらいは、他の信仰をもつべきだ。その信仰は、現代人の生活を豊かにするために能動的につくりだされるものだ。神話や伝説をもとにつくりだされている宗教とは違う、いわば人工的な信仰だ。

90年台から00年台の始めには資本主義の限界説が取り沙汰されるようになり、21世紀は「心の時代」だと言われるようになった。矛盾やきしみが露呈した今までの生き方を踏まえて、これからの生き方を模索していかなくてはいけない。今回述べた信仰について、次回の記事では詳しく考えてみたい。

残業する理由について考えてみたこと / ワークライフバランス1

ワークライフバランス」、「ブラック企業」。最近よくみかける言葉だ。日本人の長時間労働が問題視されて久しい。働き方の改革に関しては様々なところで議論されているので参考にしてほしい(特に駒崎さんの本は読みやすくておすすめ)。

http://president.jp/articles/-/20125

働き方革命―あなたが今日から日本を変える方法 (ちくま新書)

 

ここでは、なぜ日本人は残業するのか、ということに対して僕なりの意見を書いてみたい。

 

僕は、日本人が残業するのは平日家に帰ってもやることがないという理由がひとつあると考えている。

もし定時で仕事が終わったら、仕事が終わって寝るまでの間、何をして過ごしていますか?疲れてなにもする気が起きないって?若者だから、定時で帰れば少し位元気はあるんじゃないかな。おそらく、具体的にはっきりと答えられる人は少ないんじゃないだろうか。ジムに行っていたり、飲みに行ったり、だらだらと過ごしたり、ネットをみたり、だろうか。

正直、毎日早く帰ってもやることがないよと感じている人は多いと思う。特に独身の人はそうだろう。家事も特にしなくていいし、話し相手もいない。部屋で孤独になるのを苦痛に感じる人もいる。結婚している人だって、妻(旦那)に小言を言われるのが嫌だとか、家事・育児が嫌だとかで家に帰りたくない人はいる(ちなみに僕は未婚だ)。
だから、なんとなく残業したくて、仕事をわざと丁寧にやったり、仕事を引っ張ってきたり、ノルマは達成しているけどそれ以上頑張ってみたりしている人もいるだろう。そんなことはみんな自分から言わないけど。

もちろん、本当に仕事が半端なく忙しくて寝る暇もない人もいる。実際僕も、時間がいくらあっても足りないような仕事量を抱えていた経験がある。しかしそれは環境の問題だ。環境(もしくは上司)が変われば仕事量はいくらでも変わる。問題は自分が何を望んでいるかだ。

 

本来、仕事とはお金を稼ぐ手段であって、稼いだお金でやりたいことがあるから仕事をしているという論理構造が成り立っているはずだ。だから、基本的には仕事以外の時間でやりたいことが第一優先であって、家に帰ってから何をしているか、という質問に答えられないはずがないのだ。日本人は「仕事=稼ぐ手段」という構造が成り立っておらず、「仕事=生きがい」になっている人が多い。もちろん、その構造にはいい側面もある。日本の製品・サービスの品質の高さや国際競争力を支えているのは仕事=生きがいという考え方であるともいえる。

 

つまるところ、残業時間を減らすためには、仕事以外の時間でやりたいことをみつけ、それを人生の第一優先にすることが必要なのだ。

自分のやりたいことをみつけるにはどうしたらいいのか。自分のやりたいことを優先するためにはどうしたらいいのか、ということについて次回考えてみたいと思う。


※もちろん、残業時間が減らない理由は他にもたくさんある。それらは非線形になっているので、解析が難しいし、ひとつの解にはならない。この記事は、あくまで僕のひとつの考え方を示しているにすぎない。他の理由を知りたければ参考文献をみてください。

秋にかけて聴く曲

今年も夏が終わった。

僕の住む東北地方では、最近朝晩が肌寒い。

東北地方は今の時季から12月にかけてが一年のうちで一番いい時季だと思う。ちなみに二番目は新緑の季節、5月だ。

東北の秋は心地いい。少し肌寒い空気が、心と体を落ち着かせる。

うまく説明できなくて申し訳ないのだが、なんというか東北地方の街並の雰囲気が「すこし寒い感じ」にマッチするようできている気がするのだ。西日本からやってきた人には、その感じは寂しげに映るかもしれない。「松尾芭蕉が『おくのほそ道』を書き上げたくなるような雰囲気」、と言ったら、あまりに乱暴だろうか。うまく説明できないがそんなかんじなのだ。

 

夏の終わりから秋にかけて聴きたくなる曲を紹介しよう。

言わずとしれた森山直太朗の曲。


森山直太朗 - 夏の終わり

 

初めて聴いた時、小田和正らしくないメロディが印象的だった「秋の気配」。小田和正は基本的に秋が似合うね。

 


秋の気配 オフコース

 

ジャクソン・ブラウンアコースティックギター&ピアノ弾き語りはしっとりと秋に聴くのが似合う。


Jackson Browne - Solo Acoustic Live ( CD 1 & 2 ) HQ Audio

なぜ技術者は口ベタなのか

技術者や研究者などの理系の人間は口ベタだとよく言われる。確かに、テレビや講演などで、口のうまい理系の人間をみたことがないといえばない。

学生時代によくみていた、NHKの「ニッポンのジレンマ」という討論番組に対しても、出演者に技術者が出てこないことに不満を抱いていた。なぜ技術者の論客がいないのか。なんとなく想像で、話のうまくて優秀な技術者というのは、そうそういないだろうという推測はできた。

例外をあげるとすれば、アップル社の故ステーブ・ジョブスだろう。製品発表会における彼のプレゼンは世界中のテックファンを魅了した。初代iPhoneの発表会や、スタンフォード大の卒業公演はなんど見てもわくわくする。ただ、彼は理系出身とは言っても大学時代から起業してマネジメント方面の仕事ばかりしていたので、生粋の技術者というわけではない。やはり、技術畑をまっとうに歩んでいる人に口のうまい人はいないのだろうか。


なぜ技術者は寡黙なのか。僕は大学院時代にこの疑問に対して一つばかりの理由を思いついた。

 

学会発表の締め切りが迫っている中、連日徹夜で実験している。昨日は実験に失敗して、今日は一日かけて試験片を作製し、もう一度その実験をしようとしている。深夜、孤独な実験室で僕は願う。

「『実験さん』、このとおりだ。こんなに頑張っているんだから、どうかうまくいってくれよ」

しかし『実験さん』は無情なもので、実験はまたもや失敗に終わった。原因は、試験片に眼には見えないたった一個のバリが残っていたせい。明日も徹夜することが確定した。僕が連日徹夜していることや、何度も失敗を繰り返していることを、『実験さん』はまったく歯牙にもかけないで、たった一個のバリで実験をフイにさせる。僕は夜のキャンパスにため息をつく。

「『実験さん』を手なずけるには、優しい言葉やレトリックなんて役に立たない。ただ、必要な条件を満たしてやるだけだ」

 

上の話は、大学院時代に僕が何度も経験したことだ。上の話のように、当然のことながら僕の言葉や僕の頑張りなんて自然科学は気にしない。つまり、自然科学(自然にある物質を利用した現象)を相手に日々仕事をする技術者や研究者は、人を動かし納得させるために必要な言葉や感情を使う能力が訓練されないのだ。逆に、論理や緻密さといったことを追求する能力はどんどん訓練されていく。技術者に口ベタな人が多いのは、自然科学を相手に仕事をしているから。これが、僕が大学院時代にみつけたひとつばかりの理由だ。

 

「自然科学に対しての接し方はわかるけれども、人間に対しての接し方はわかりません」

これが理系の人たちの言い分だった(僕のひとつばかりの推測から導くと)。プラグマティズムによって、科学が道具としての価値を認められている現代ではそれでもやっていけるかもしれない。しかし、原発神話崩壊などで科学への信頼が揺らぎ始めている中、理系の人間はもっと饒舌になる必要があるのではないかと思う。

僕は人を動かせる技術者になりたい。

There is a light that never goes out / The smiths 【音楽の紹介】

誰もが一度は経験したことがあるだろう。

「いっそこのまま死んでしまえばいいのに」と思うような最高の夜を。

 

1986年に発表された、ザ・スミスの「There is a light that never goes out」は、青春時代の繊細な心情を描いた名曲だ。

好きな女の子と車で揺られながら、ここではないどこかにいってしまいたい。いっそのこと二人で一緒に10トントラックに轢かれて死んでしまいたい。だって自分は、今、ここで、君といる以外に居場所なんて無いんだから。

青春時代を過ごした誰もが若いころに感じた繊細な感情をうまく音楽にのせて表現している。モリッシーの独特の消えてしまいそうな青い声は、この曲を歌うためにあるのではないかと思ってしまう。

一緒に死んでしまいたいという感情を暗くて身勝手な感情だと決めつける人もいるだろう。だけどわかってほしい。彼らにとって、現実はこれ以上よくなることはないのだ。まさに人生の絶頂を彼らは迎えているのだ。あとはもう下り坂を降りることしか出来ない。「決して消えることのない一筋の光」を求める彼らにとって、「今ここで」死ぬことは必然の選択なのだ。

 


The Smiths - There is A Light That Never Goes out

 

140文字でわかる哲学史

真理とは世界を観察し論理を導いていけば必ずみつかるものだと考えた人類。しかし、観察では全てを知ることは出来ず、さらには最大の道具である論理そのものの脆弱性を知ることとなった。真理探求の限界と不毛さを知った結果、真理は相対化し、現代ではひたすら「他者」との闘いが繰り返されている。

 

※上の内容は以下の文献から多大なる影響を受けて書いています。

 

史上最強の哲学入門 (河出文庫)

史上最強の哲学入門 (河出文庫)

 

 

英国のEU離脱は僕らに関係ある? / ポピュリズム化する世界

イギリスの国民投票EU離脱派が勝利したことが世界中を騒がせている。新聞はEU離脱に関する記事で溢れ、ネットやテレビのトピックスもEU関連で埋まった。

それらのメディアでよく騒がれたのは「イギリスのEU離脱が僕らに何か関係あるの?」という話題だ。TPPの時もそうだったが国際問題の話題になると、僕たち一般人は自分たちの生活範囲でうまく消化しきれない。

多くの記事にあるように、たしかにEU離脱が僕らに与える影響はたくさんあるだろうが、結局のところ直接的には関係がないことばかりだ[1][2]。

だけど、僕らがこの出来事から本当に感じ取るべきなのは、もっと大きな流れだ。つまり、世界がポピュリズムに流されつつあること。今の世界では、今回のような二者択一の民主主義の選挙で、過激で独裁的な選択肢が一夜にして決定づけられてしまう可能性がでてきたということだ。

 

ポピュリズムは、Wikipediaによると以下のようにある。

ポピュリズム(英: populism)とは、一般大衆の利益や権利、願望、不安や恐れを利用して、大衆の支持のもとに既存のエリート主義である体制側や知識人などと対決しようとする政治思想または政治姿勢のことであり[1][2][3][4]、日本語では大衆主義や人民主義[5]などと訳される。

ポピュリズム - Wikipedia

 簡単に言ってみれば、「ごちゃごちゃ抜かすエリートなんてクソ食らえ、とにかく強そうなやつが好きだぜ!」という考え方だ(たぶん)。

最近、世界がそのポピュリズムに流されつつある[3]。代表的な例が、おなじみアメリカ大統領選におけるトランプ氏だ。物理学者のスティーブン・ホーキング氏は彼を「最も低レベルの層の大衆に受けているように見える扇動政治家」と呼んだ[4]。過激で強気な発言によって、「正直あまり頭は良くないけれどとにかく現状に不満をもっている人達」の人気を集め、共和党の指名を獲得するまでなったわけだ。他に、フィリピンでは暴言だらけのドゥテルテ氏が大統領になっている。今回のEU離脱派の勝利も、移民問題などによってもともと欧州からの独立心が強い英社会が右よりの思想に傾いた結果だといえる。

 政治がポピュリズムに流されると、大衆の怒りや不安といった感情がそのまま世界を動かすことになる。かつてのヒトラーのように、独裁は民主的な手続きを得て完成されることがある。大衆の不満と怒りが過激で独裁的な政治を選んでしまうことはたしかにあるのだ。無知な大衆の感情が理性を打ち負かし、世界を動かしてしまうかもしれない。

 

映画『スターウォーズ』のワンシーン。共和国議長のパルパティーンが議会の承認を得て帝国の皇帝になった時、アミダラ女王は悲壮なおももちでつぶやく。

「自由は死にました。万雷の拍手の中で」[5]

過激で独裁的な選択肢が決定づけられてしまう一夜を僕たちは迎えたくない。

 

 

[1] 

www.goodbyebluethursday.com

[2]

www3.nhk.or.jp

 [3]

www.huffingtonpost.jp

[4]

www.huffingtonpost.jp

[5]