地図とコンパス

人はときに美しいと思える瞬間に出会うこともあります。人生の地図とコンパスをつくっていきましょう。

「GRIT やり抜く力」 アンジェラ・ダックワース著 / 本の紹介

 

やり抜く力 GRIT(グリット)――人生のあらゆる成功を決める「究極の能力」を身につける

やり抜く力 GRIT(グリット)――人生のあらゆる成功を決める「究極の能力」を身につける

 

 

本の簡単な要点と感想。

 

◎成功する人に共通しているのはやり抜く力(grit:英)が優れているということ。才能や努力よりもやり抜く力の相関が強い。

 

◎成長思考⇒楽観的⇒やり抜く力

成長思考は固定思考の対義語。才能・知能は生まれながらのものではなく、努力次第でのばせるものだというマインドセットが成長思考を産む。固定思考から成長思考になるためにはは、脳の神経回路の再配線が必要なので認知行動療法が有効である。

楽観思考とは悲観思考の対義語。悲観主義者は苦しみを逃れられないものとして考える。一方、楽観主義者は、苦しみには特定の原因があると考える。悲観主義者の無力感は、「学習性無力感」によって形成される部分が大きい。ちなみに、「学習性無力感」はカマスを活性化させる例で用いられることが多い。(中村一八の知心コラム|リーダーの責務とは|ニューエア

楽観思考は粘り強さを産む。

 

◎やり抜く力を伸ばすためには、

①自分が好きなことに打ち込む。

②意図的に練習する。

③大きな目標をもつ。

④成長思考

大きな目標をもつ人は、幸福度が高いことがわかっている。ここでいう目標とは、人の役に立ちたいという利他主義である。

どんな職種にも一定の割合で天職だと思っている人がいる。自分の天職を見つけることは成功するための前提。

一万時間の練習でも一流と”そこそこ”に別れるのは、意図的に練習をしているかどうか。意図的な練習は決して楽しくはないが、実力を発揮したときの達成感は半端ない。

 

 

成功論を書いた本はたくさんあるが、やり抜く力(GRIT)に焦点を当てて科学実験を基に成功論を書いた本は意外と珍しいのかもしれない。著者はきっと、逆境にめげずに努力してきた人なんだろう。この本は、自分の可能性に希望をもつことができるように書かれている。読んで気分が悪くなる本ではない。モチベーションをあげてくれる本だ。

物事をシンプルに考える事の重要性を最近思っている。天職を見つけることが大事だとわかっていても、大抵の人は賃金、大企業であること、有名であること、恥ずかしくないこと、などを理由に就職活動を行う。天職につくことが成功の条件だと昔から言われているのに、どんな仕事でも天職になりうるのに、他の条件を優先している。また、意図的な練習が必要だと言われているのに、会社の仕事にうんざりしながら、上司から言われた仕事を淡々とこなす日々を過ごし、あわよくば出世しようと考える。僕たちはおもったより物事をシンプルに考えていない。感情やみてくれに流されて、単純なことを実行できていない。

このような本を読み、データに裏付けられた仮説を知ること。物事をシンプルに考えること。そうすればきっと成功できるんじゃないだろうか。

 

 

 

正直言うと、人生はつらいことばかりだ。

正直言うと、人生はつらいことばかりだ。

なぜなら、人間は恒常性(ホメオスタシス)を好むのに対して、外界は常に変化し続けるものだからだ。

人間は体内の環境を一定に保つようにできていることが知られている。外界が変化しても、フィードバック制御を行うことで体内環境は一定に保たれる。しかし、その制御を行う時、人間はエネルギーを必要とする。風邪の時に熱が出るようなものだ。そして人間はストレスを感じる。

精神にも同じことが言えるだろう。感情を制御する脳内物質の分泌が一定に保たれているとき、人間は大きなストレスを感じない。しかし、予期せぬ出来事で脳内物質の分泌量を制御するシステムにノイズが入ると、人間はストレスを感じる。恋人からの突然の別れ話に、ショックを受けない人がいないように。

 

対して、外界(自然界)は変化し続ける。同じ毎日が続くようにみえて、刻々と変化している。科学的には、俗に言うエントロピー増大の法則によっても説明できるし、カオス理論や非決定論によっても説明できるだろう。

人間関係も常に変化する。昨日の上司(部下)と今日の上司(部下)が別人にみえて、大きなストレスを感じることがある。人間は常に変化している。DNAの設計図に従って身体は新しく作り直されている。精神も変化している。睡眠によって記憶が毎日更新されるから。

 

恒常性を求める人間は、変化し続ける世界に生きる限り、つらいことから逃れられない。

だけど、その事実を悲観することはない。恒常性の獲得こそが生きるということであり、人をワクワクさせる原動力だからだ。

 

 

 

清水富美加さんが出家した理由 /  社会への違和感を抱える人

最近、清水富美加さんの”出家”報道が芸能ニュースを騒がせている。

僕は清水さんに対して、バラエティ番組でみせる彼女の言動から妙に親近感を感じていたというか、自分と似た感性をもつ人なんじゃないかと感じていた。なので、今回、幸福の科学という宗教団体に”出家”するという報道を聴いて、「ああ、そういうことだったのか」と少し納得してしまったのだ。僕がなぜ彼女に親近感を感じたのか、そしてなぜ彼女が宗教に入信を決めたのか、僕には少しわかる気がしたのだ。

といっても正直、僕は清水さんの人生や性格に関する”事実”を世間の一般人程度にしか知らない。だからこの記事に書くことはあくまで僕の意見だということを留意していただきたい。ちなみに、僕は何の宗教団体にも属していない。

 

清水さんがバラエティ番組でみせる言動は、なぜ僕に妙な親近感を抱かせたのか。親近感という表現は正しくないかもしれない。「ちょっと変わった感じ」といったらいいのだろうか。表向きには芸人バリのしゃべりのうまさとノリの良さが彼女の特徴にみえる。しかし、彼女の姿勢はどこか世間から離れている。一歩ひいた目で社会を見ているようにみえた。事務所から言われてキャラをつくっていたのだろうが、彼女の心の奥にある反抗心と頭の良さを隠すことはできていないようにみえた。その反抗心と、世間から少し離れている感じが僕に「ちょっと変わった感じ」を抱かせたのだろうと思う。

 

宗教にはまる人というのは、世間からは理解されない。その隔絶は、太宰治の『人間失格』に共感する人としない人の間の隔絶に似ている。僕はなんの宗教にも入信していないが、宗教にはまる側の人間の気持ちはわかる。彼らは、社会に対して常に違和感を感じており、社会に居場所がないと感じている。彼らにとって”死”とは社会通念上において避けるべきものではなく、選択肢のひとつであり、言ってみれば毎日生きる意味をみつけだし生きることを選択している。宗教というのは彼らに生きる理由を与えてくれるものであり、社会において唯一の居場所だとかんじている。宗教団体に入信していない状態であっても、宗教というのは言ってみれば死ぬ前の最期の駆け込み寺であり、普通に社会で暮らしていても、どこか憧れを抱いている。

明確な根拠を言うことができなくて申し訳ないのだが、清水さんは宗教にはまる側の人間だと僕は感じたのだ。バラエティ番組でみせる反抗心と、世間から少し離れている感じがそう抱かせたのだろうと思う。

 

清水さんは仕事に追い詰められていた。社会人として本格的に働き始める二十歳すぎの頃というのは誰にとってもつらい時代だ。僕自身、二十代の前半はあまりの忙しさで毎日死にたいと思っていたし、これから生きていく社会への不信と恐怖に陥り、宗教に出家して生きていくしかないと思い詰めていた。芸能界の忙しさは僕には想像に容易いものではないが、彼女も同じような心境に陥ったのだろう。

彼女にとって幸福の科学はあまりに身近な存在だった。僕は働く場所を変えることで社会への不信と恐怖は、自分の精神がつくりだす一種の幻想だと気づくことができた。しかし、清水さんは気づいたときには宗教団体、芸能事務所、世間の狭間で身動きが出来ない状態となり、その幻想に気付く機会と時間がなかった。

おそらく、幸福の科学に出家しても彼女の人生の問題は解決しない。社会への違和感は人間の精神が作り出す幻想だということに早く気付かなくてはいけない。そして、誰かに生きる理由を提示されるのではなく、自分の意思で、自分の頭と身体を動かすことで、生きる理由を創っていかなければ、社会への違和感を心の底から拭うことはできないということを知らなくなてはいけない。それは宗教に入信してもしなくてもできることだ。今回の出家は、彼女にとってひとつの通過点であることを祈る。

信仰の必要 / ワークライフバランス2

ポケモンGoが配信開始されたのは3ヶ月ほど前だっただろうか。老若男女から普段ゲームをしない人まで、日本中の誰もがアプリをダウンロードしているような過熱ぶりだった。果たして、今、ポケモンGoに熱中している人はどれくらいいるのか?誰かが区切りをつけたわけでもなく、いつのまにか大きな流行は過ぎ去ったようだ。

一定の周期毎に流行りものに食いつき、その時毎に一時的な情熱を傾ける。その対象はスマホゲーム、ドラマ、ゴシップネタなど。大抵の人は、もともと好きだったから情熱を傾けているわけではない。そのときたまたま登場して話題になった、面白くて中毒性のあるコンテンツに群がっている。

家事は楽になり、資本主義経済によりお金が回るシステムをつくることで稼ぐことが楽になり、効率化によって移動時間や待ち時間がどんどん短くなる。また医療技術の進歩で平均余命は伸びるばかり。

生きるために生きる必要がなくなり、余暇の時間を持てるようになったのはいいが、その余暇の時間を、そのときの流行りモノにつかっている。面白かったら食いつき、面白くなかったら捨てる。人間は、このような時間の使い方をするために高度にシステム化された社会をつくってきたのだろうか。

効率化を追求してきた社会で、余剰となった人間の活力と時間はどこに向かうのだろう?僕たちの生産性はきっと百年前の人達よりかなり高くなった。次第に人々は、自分たちのやっていることはお金とものをぐるぐる回しているだけなんじゃないかと気づき始めている。神話に出てくる拷問じゃないが、レンガを積んでは壊すという作業を一生続けているようなものだ。僕たちはなんのために生きているのか、何のために僕たちのエネルギーを使うのか、ということが問われ始めている。

そこで、僕は信仰をもつことが必要なのではないかと考える。社会が効率化を追求する中で、その目的というものが希薄になっている。目的を作り出すために信仰が必要となる。ここでいう信仰とは、絶対神を崇めるというようなおおざっぱなものではなくて、日常生活に目的を与えるようなものーー例えば私は家族の幸せを最優先に考え行動する、私は地球環境を最優先に考え行動するーーをもつことを意味する。

現代の日本では、信仰というとネガティブなイメージをもたれやすい。1990年台のオウム真理教によるテロ行為は、人々に宗教=危険という認識を抱かせた。世界で頻発するイスラム原理主義者のテロも、宗教は人間をコントロールできない状態に追い込むウイルスのようなものだという認識を人々に与えた。

実は、多くの日本人は既に危険な信仰をもっている。先進国の中では図抜けて高い労働時間(残業時間)とそこから発生する過労死問題をみると、日本人は会社信仰あるいは経済信仰のようなものに洗脳されているといえないだろうか。おそらくこの原因は、戦後あらゆる信仰が破壊された状態で、資本主義という信仰が急速に大きなエネルギーで日本全土に広がっていったためだ。いま、日本人は資本主義社会のストレスに苛まされ、増えた余暇の時間までも移りゆく世の中に流されている。

資本主義に代わる、別の信仰がいま必要とされている。資本主義という信仰に、仕事もプライベートも含めて24時間染まるのではなく、少なくともプライベートの時間くらいは、他の信仰をもつべきだ。その信仰は、現代人の生活を豊かにするために能動的につくりだされるものだ。神話や伝説をもとにつくりだされている宗教とは違う、いわば人工的な信仰だ。

90年台から00年台の始めには資本主義の限界説が取り沙汰されるようになり、21世紀は「心の時代」だと言われるようになった。矛盾やきしみが露呈した今までの生き方を踏まえて、これからの生き方を模索していかなくてはいけない。今回述べた信仰について、次回の記事では詳しく考えてみたい。

残業する理由について考えてみたこと / ワークライフバランス1

ワークライフバランス」、「ブラック企業」。最近よくみかける言葉だ。日本人の長時間労働が問題視されて久しい。働き方の改革に関しては様々なところで議論されているので参考にしてほしい(特に駒崎さんの本は読みやすくておすすめ)。

http://president.jp/articles/-/20125

働き方革命―あなたが今日から日本を変える方法 (ちくま新書)

 

ここでは、なぜ日本人は残業するのか、ということに対して僕なりの意見を書いてみたい。

 

僕は、日本人が残業するのは平日家に帰ってもやることがないという理由がひとつあると考えている。

もし定時で仕事が終わったら、仕事が終わって寝るまでの間、何をして過ごしていますか?疲れてなにもする気が起きないって?若者だから、定時で帰れば少し位元気はあるんじゃないかな。おそらく、具体的にはっきりと答えられる人は少ないんじゃないだろうか。ジムに行っていたり、飲みに行ったり、だらだらと過ごしたり、ネットをみたり、だろうか。

正直、毎日早く帰ってもやることがないよと感じている人は多いと思う。特に独身の人はそうだろう。家事も特にしなくていいし、話し相手もいない。部屋で孤独になるのを苦痛に感じる人もいる。結婚している人だって、妻(旦那)に小言を言われるのが嫌だとか、家事・育児が嫌だとかで家に帰りたくない人はいる(ちなみに僕は未婚だ)。
だから、なんとなく残業したくて、仕事をわざと丁寧にやったり、仕事を引っ張ってきたり、ノルマは達成しているけどそれ以上頑張ってみたりしている人もいるだろう。そんなことはみんな自分から言わないけど。

もちろん、本当に仕事が半端なく忙しくて寝る暇もない人もいる。実際僕も、時間がいくらあっても足りないような仕事量を抱えていた経験がある。しかしそれは環境の問題だ。環境(もしくは上司)が変われば仕事量はいくらでも変わる。問題は自分が何を望んでいるかだ。

 

本来、仕事とはお金を稼ぐ手段であって、稼いだお金でやりたいことがあるから仕事をしているという論理構造が成り立っているはずだ。だから、基本的には仕事以外の時間でやりたいことが第一優先であって、家に帰ってから何をしているか、という質問に答えられないはずがないのだ。日本人は「仕事=稼ぐ手段」という構造が成り立っておらず、「仕事=生きがい」になっている人が多い。もちろん、その構造にはいい側面もある。日本の製品・サービスの品質の高さや国際競争力を支えているのは仕事=生きがいという考え方であるともいえる。

 

つまるところ、残業時間を減らすためには、仕事以外の時間でやりたいことをみつけ、それを人生の第一優先にすることが必要なのだ。

自分のやりたいことをみつけるにはどうしたらいいのか。自分のやりたいことを優先するためにはどうしたらいいのか、ということについて次回考えてみたいと思う。


※もちろん、残業時間が減らない理由は他にもたくさんある。それらは非線形になっているので、解析が難しいし、ひとつの解にはならない。この記事は、あくまで僕のひとつの考え方を示しているにすぎない。他の理由を知りたければ参考文献をみてください。

秋にかけて聴く曲

今年も夏が終わった。

僕の住む東北地方では、最近朝晩が肌寒い。

東北地方は今の時季から12月にかけてが一年のうちで一番いい時季だと思う。ちなみに二番目は新緑の季節、5月だ。

東北の秋は心地いい。少し肌寒い空気が、心と体を落ち着かせる。

うまく説明できなくて申し訳ないのだが、なんというか東北地方の街並の雰囲気が「すこし寒い感じ」にマッチするようできている気がするのだ。西日本からやってきた人には、その感じは寂しげに映るかもしれない。「松尾芭蕉が『おくのほそ道』を書き上げたくなるような雰囲気」、と言ったら、あまりに乱暴だろうか。うまく説明できないがそんなかんじなのだ。

 

夏の終わりから秋にかけて聴きたくなる曲を紹介しよう。

言わずとしれた森山直太朗の曲。


森山直太朗 - 夏の終わり

 

初めて聴いた時、小田和正らしくないメロディが印象的だった「秋の気配」。小田和正は基本的に秋が似合うね。

 


秋の気配 オフコース

 

ジャクソン・ブラウンアコースティックギター&ピアノ弾き語りはしっとりと秋に聴くのが似合う。


Jackson Browne - Solo Acoustic Live ( CD 1 & 2 ) HQ Audio

なぜ技術者は口ベタなのか

技術者や研究者などの理系の人間は口ベタだとよく言われる。確かに、テレビや講演などで、口のうまい理系の人間をみたことがないといえばない。

学生時代によくみていた、NHKの「ニッポンのジレンマ」という討論番組に対しても、出演者に技術者が出てこないことに不満を抱いていた。なぜ技術者の論客がいないのか。なんとなく想像で、話のうまくて優秀な技術者というのは、そうそういないだろうという推測はできた。

例外をあげるとすれば、アップル社の故ステーブ・ジョブスだろう。製品発表会における彼のプレゼンは世界中のテックファンを魅了した。初代iPhoneの発表会や、スタンフォード大の卒業公演はなんど見てもわくわくする。ただ、彼は理系出身とは言っても大学時代から起業してマネジメント方面の仕事ばかりしていたので、生粋の技術者というわけではない。やはり、技術畑をまっとうに歩んでいる人に口のうまい人はいないのだろうか。


なぜ技術者は寡黙なのか。僕は大学院時代にこの疑問に対して一つばかりの理由を思いついた。

 

学会発表の締め切りが迫っている中、連日徹夜で実験している。昨日は実験に失敗して、今日は一日かけて試験片を作製し、もう一度その実験をしようとしている。深夜、孤独な実験室で僕は願う。

「『実験さん』、このとおりだ。こんなに頑張っているんだから、どうかうまくいってくれよ」

しかし『実験さん』は無情なもので、実験はまたもや失敗に終わった。原因は、試験片に眼には見えないたった一個のバリが残っていたせい。明日も徹夜することが確定した。僕が連日徹夜していることや、何度も失敗を繰り返していることを、『実験さん』はまったく歯牙にもかけないで、たった一個のバリで実験をフイにさせる。僕は夜のキャンパスにため息をつく。

「『実験さん』を手なずけるには、優しい言葉やレトリックなんて役に立たない。ただ、必要な条件を満たしてやるだけだ」

 

上の話は、大学院時代に僕が何度も経験したことだ。上の話のように、当然のことながら僕の言葉や僕の頑張りなんて自然科学は気にしない。つまり、自然科学(自然にある物質を利用した現象)を相手に日々仕事をする技術者や研究者は、人を動かし納得させるために必要な言葉や感情を使う能力が訓練されないのだ。逆に、論理や緻密さといったことを追求する能力はどんどん訓練されていく。技術者に口ベタな人が多いのは、自然科学を相手に仕事をしているから。これが、僕が大学院時代にみつけたひとつばかりの理由だ。

 

「自然科学に対しての接し方はわかるけれども、人間に対しての接し方はわかりません」

これが理系の人たちの言い分だった(僕のひとつばかりの推測から導くと)。プラグマティズムによって、科学が道具としての価値を認められている現代ではそれでもやっていけるかもしれない。しかし、原発神話崩壊などで科学への信頼が揺らぎ始めている中、理系の人間はもっと饒舌になる必要があるのではないかと思う。

僕は人を動かせる技術者になりたい。

There is a light that never goes out / The smiths 【音楽の紹介】

誰もが一度は経験したことがあるだろう。

「いっそこのまま死んでしまえばいいのに」と思うような最高の夜を。

 

1986年に発表された、ザ・スミスの「There is a light that never goes out」は、青春時代の繊細な心情を描いた名曲だ。

好きな女の子と車で揺られながら、ここではないどこかにいってしまいたい。いっそのこと二人で一緒に10トントラックに轢かれて死んでしまいたい。だって自分は、今、ここで、君といる以外に居場所なんて無いんだから。

青春時代を過ごした誰もが若いころに感じた繊細な感情をうまく音楽にのせて表現している。モリッシーの独特の消えてしまいそうな青い声は、この曲を歌うためにあるのではないかと思ってしまう。

一緒に死んでしまいたいという感情を暗くて身勝手な感情だと決めつける人もいるだろう。だけどわかってほしい。彼らにとって、現実はこれ以上よくなることはないのだ。まさに人生の絶頂を彼らは迎えているのだ。あとはもう下り坂を降りることしか出来ない。「決して消えることのない一筋の光」を求める彼らにとって、「今ここで」死ぬことは必然の選択なのだ。

 


The Smiths - There is A Light That Never Goes out

 

140文字でわかる哲学史

真理とは世界を観察し論理を導いていけば必ずみつかるものだと考えた人類。しかし、観察では全てを知ることは出来ず、さらには最大の道具である論理そのものの脆弱性を知ることとなった。真理探求の限界と不毛さを知った結果、真理は相対化し、現代ではひたすら「他者」との闘いが繰り返されている。

 

※上の内容は以下の文献から多大なる影響を受けて書いています。

 

史上最強の哲学入門 (河出文庫)

史上最強の哲学入門 (河出文庫)

 

 

英国のEU離脱は僕らに関係ある? / ポピュリズム化する世界

イギリスの国民投票EU離脱派が勝利したことが世界中を騒がせている。新聞はEU離脱に関する記事で溢れ、ネットやテレビのトピックスもEU関連で埋まった。

それらのメディアでよく騒がれたのは「イギリスのEU離脱が僕らに何か関係あるの?」という話題だ。TPPの時もそうだったが国際問題の話題になると、僕たち一般人は自分たちの生活範囲でうまく消化しきれない。

多くの記事にあるように、たしかにEU離脱が僕らに与える影響はたくさんあるだろうが、結局のところ直接的には関係がないことばかりだ[1][2]。

だけど、僕らがこの出来事から本当に感じ取るべきなのは、もっと大きな流れだ。つまり、世界がポピュリズムに流されつつあること。今の世界では、今回のような二者択一の民主主義の選挙で、過激で独裁的な選択肢が一夜にして決定づけられてしまう可能性がでてきたということだ。

 

ポピュリズムは、Wikipediaによると以下のようにある。

ポピュリズム(英: populism)とは、一般大衆の利益や権利、願望、不安や恐れを利用して、大衆の支持のもとに既存のエリート主義である体制側や知識人などと対決しようとする政治思想または政治姿勢のことであり[1][2][3][4]、日本語では大衆主義や人民主義[5]などと訳される。

ポピュリズム - Wikipedia

 簡単に言ってみれば、「ごちゃごちゃ抜かすエリートなんてクソ食らえ、とにかく強そうなやつが好きだぜ!」という考え方だ(たぶん)。

最近、世界がそのポピュリズムに流されつつある[3]。代表的な例が、おなじみアメリカ大統領選におけるトランプ氏だ。物理学者のスティーブン・ホーキング氏は彼を「最も低レベルの層の大衆に受けているように見える扇動政治家」と呼んだ[4]。過激で強気な発言によって、「正直あまり頭は良くないけれどとにかく現状に不満をもっている人達」の人気を集め、共和党の指名を獲得するまでなったわけだ。他に、フィリピンでは暴言だらけのドゥテルテ氏が大統領になっている。今回のEU離脱派の勝利も、移民問題などによってもともと欧州からの独立心が強い英社会が右よりの思想に傾いた結果だといえる。

 政治がポピュリズムに流されると、大衆の怒りや不安といった感情がそのまま世界を動かすことになる。かつてのヒトラーのように、独裁は民主的な手続きを得て完成されることがある。大衆の不満と怒りが過激で独裁的な政治を選んでしまうことはたしかにあるのだ。無知な大衆の感情が理性を打ち負かし、世界を動かしてしまうかもしれない。

 

映画『スターウォーズ』のワンシーン。共和国議長のパルパティーンが議会の承認を得て帝国の皇帝になった時、アミダラ女王は悲壮なおももちでつぶやく。

「自由は死にました。万雷の拍手の中で」[5]

過激で独裁的な選択肢が決定づけられてしまう一夜を僕たちは迎えたくない。

 

 

[1] 

www.goodbyebluethursday.com

[2]

www3.nhk.or.jp

 [3]

www.huffingtonpost.jp

[4]

www.huffingtonpost.jp

[5]

 

あのころの青空  Crazy /  エアロスミス 【音楽の紹介】

高校生の頃この曲を聞いていたなら、次の日には学校を飛び出して狂ったよう遊んだだろう。

音楽というのは不思議なもので、言葉で表すことができない感情とか情景のようなものを感じさせてくれる。時には、忘れかけていた昔の記憶を鮮明に映し出してくれたりする。なぜそうした不思議な力が音楽にはあるのか、いまだに科学でもわからないそうだ。

エアロスミスの「Crazy」のPVは、青春時代の青空とわけのわからない開放感ときらびやかさと切なさを思い出させてくれる。この曲のPVをみて何がなんだか分かる人はいないだろう(笑)。ストーリーも意味も理由もわからない。しかし、だからこそこのPVが伝えたいことが伝わるのだ。わけがわからいけどテンションだけは高かった青春時代のあの頃を、なんとなくいい時代だったと振り返らせてくれる。

 

www.youtube.com

 

人生を変えた本 / 『人間失格』太宰治【本の紹介】

僕が太宰治と出会ったのは高校二年の秋だった。いまでもあの時の衝撃を忘れられない。ツタヤで手にした『人間失格』の冒頭を立ち読みした時、体中に経験したことのないなにかが入り込んでくるのを感じた。冒頭から10ページほど読んで、ふと意識が戻りあたりを見回すと、世界が変わっていた。正しく言うと、『人間失格』の冒頭を立ち読みしていた一瞬の間に、世界をみる目が変わってしまっていたのだ。

 

僕の人生に太宰治の小説が及ぼした影響は計り知れない。人間失格を読まなければ、「文学」というものの魅力を知ることはなかったかもしれない。人間失格を読まなければ、人間の心の奥底を知ることはなかったかもしれない。人間失格を読まなければ、もっと社会にうまく適合できたかもしれない。この本の影響には、良いことも悪いこともあった。でも僕は、この本に出会えてよかったと思っている。

 

人間失格』は僕だけでなく他の多くの若者にも影響を与え続けてきたようだ。文庫本の累計発行部数は600万部を超え、現在になっても発行部数を伸ばしている。2010年頃には、発売後50年を経て社会現象となるまでにヒットしたのを記憶している。

 

人間失格が、若者に影響を与えるのはなぜか。太宰治に影響を受けた若者の気持ちを、又吉さんが気持よく代弁してくれている。

又吉直樹(ピース)の名言コラム「確かにお前は大器晩成やけど!!」

「多くの読者が、僕と同じようにこれは自分の物語だと感じるらしい」

僕もご多分にもれず、葉蔵(主人公)は自分の分身じゃないかと思って読んだ。ちなみに、爆笑問題の太田さんも『晩年』を読んで、自分のことをしゃべっていると感じたという。太宰治の小説は、ある種の若者に、すさまじい共感を呼び起こす、ということだ。

 

不幸で哀れみに満ちた生き方を描いているにも関わらず、将来の開けた若者が共感してしまうのは、葉蔵の心情吐露があまりにも、ある種の人にとって馴染みのあるものだからだと思う。太宰治は、読者が「自分にしかわからないだろう」、「自分にしかわかっていなかったことだろう」と思っていた、言葉にできない感覚・違和感を、これでもかというくらいに描いている。特に、「恥の多い生涯を送ってきました」からはじまる数ページの幼少時代の追憶のエピソードは、僕にすさまじい共感を呼び起こした。「こんなことを書いていいのか」、「こんな気持ちをもっていたのは自分だけじゃなかったのか」と衝撃を受けた。

 

ある種の人にとって人間失格は予言書として映る。主人公の葉蔵に強烈に共感をする人は、当然自分の人生を葉蔵と照らし合わせる。そして、神様みたいにいい子だったと言われて廃人となる葉蔵のクライマックスを自分の人生の結末だと思ってしまう。あまりにも主人公に共感してしまうがゆえに、自分の人生も破滅に向かうのだと予言されているように感じるのだ。僕も、自分は葉蔵のような最期を迎えるのだと思った。

 

人間失格』が、高校生の僕に与えたなにかとは、一種の挫折だったといえるだろう。「自分にしかわからないだろう」、と思っていた言葉に出来ない感覚を、太宰治が既に日本を代表する文学作品として残していたという事実。自分の感じていたことは、ぜんぜん特別なことではないと知らされたことで、若い僕の根拠のない優越感を打ち砕いた。そして、自分のような感性をもつ人間が行き着く先は、人間失格の主人公「葉蔵」のような破滅なのだという予言。自分は社会に適合できない人間として生きていかなけくてはいけないと予言されるのは、あまりにもつらいことだった。『人間失格』は、若い僕に絶望を味あわせ、それから僕はときたま破滅的な行動をとるようになった。

 

 『人間失格』を読んでから僕は以前より考えに耽るようになった。高校の同級生からはネガティブになったと言って、煙たがられた。世の中で起こる物事をみては、人間の心の奥底を考えるようになってしまい、精神的につらい日々が続いた。本気で自分は社会不適合者なんだと思うようになった。

 

しかし、時間がたつにつれて、僕が高校生のころに抱いた絶望は、実際のところ取るに足らないものだと知った。歳をとるにつれ、人生は捉え方でどうにでも転ぶものだと知ったからだ。また、『人間失格』の主人公に強烈に共感してしまうのは、ひとえに太宰治の才能によるものだとだんだんわかってきたからだ。人間失格が与えた絶望は、人間失格という作品のもつ力を表していたわけだ。

 

それでも、『人間失格』は僕に大きな影響を及ぼしたのはたしかだ。『人間失格』が僕に与えた絶望は、『人間失格』という作品のもつ力を表していた。僕はその事実から、文学の奥深さを知った。また、『人間失格』のような小説が生まれるこの世界を素晴らしいと思った。そして自分も、そのような表現の輪の中に入りたいと思った。そうして僕は、文学、音楽や映画のような芸術に興味をもつようになった。『人間失格』は、僕に文学の素晴らしさを教えてくれたのだ。

 

 

人間失格を読む前の僕はもっと実務的で明るい性格の人間だった。『成り上がり』という、矢沢永吉の若き日の自伝がある。『成り上がり』は中学時代の僕にものすごく影響を与えた本だ。その本を読んだ影響から、苦しさや悔しさは努力によって解消されると考えていたし、悲しみは心の弱さからくる感情だと考えていた。頑張れば人生は今よりもっと良くなっていくし、人生を良くしていくことが何よりも大事なことなのだと思っていた。そのような考え方は、『人間失格』を読んでから覆されてしまったのだ。

 

人間失格』では、実務的で明るい性格の人間は、実はとても意地が悪い人間なのだと表現されている。ヒラメという登場人物は、世間や常識を味方につけることでとてもうまく世渡りをするし、葉蔵の兄貴たちもまた世間体を気にする実務家タイプの人間だ。世間や常識の視点からみるとヒラメや兄貴たちはまともだ。しかし葉蔵の視点から見ると、彼らはまったく理解できない存在に映る。人の気持ちを理解することができず、汚い世俗にまみれた人間にみえるのだ。「実務的で明るい性格の人間=正しい」と信じていた僕の価値観は、誤った思想として描かれていたわけだ。

 

言ってみれば、『人間失格』は人間の負の側面にもスポットライトを当てるべきだと教えてくれたのだ。苦しさや辛さ、心の弱さを頭ごなしに否定するのではなく、そのような負の側面の正当性を認める必要があると教えてくれた。人間の負の側面の存在とその価値を知り、それまでの僕の価値観を壊してくれた。

 

この本を読んでから僕の人生は変わった、と思う。読んでいない人生なんて僕には予想できないから。ただひとつ言いたいのは、この本に出会った人生を送ることができて良かったということだけだ。

 

人間失格 (集英社文庫)

人間失格 (集英社文庫)

 

 

表現する理由 / 落合陽一 TEDxTokyo 2011 

 

先日のニッポンのジレンマ「“会社やめたい”あなたに贈る仕事論」に出演していた落合陽一氏。自分探しの話題になった時、彼は「人生は無意味だ。問題は何を信仰するかだ」と話していた。その言葉をきいて、「僕と価値観似てるじゃん!」と感じて興味をもった。ネットで検索して、落合氏が2011年に講演をしたTEDTOKYOの動画をみた。この動画を見て、やっぱりこの人はすごい人だったんだなと感じた。

www.youtube.com

 この時、落合氏は大学院生だろうか。最近テレビで見かける、けばけばしい姿とはかなり違ってはいるが、この頃から独特の雰囲気をもっている。ファッションもそうだし、しゃべり方もそう。そして思考も普通ではない。この頃の彼はどちらかというと芸術家だ。

プレゼンは、自分が何を表現したかったか、自分の表現したいことをどうやってかたちにしたか、という流れで進む。巨大なブレットボート(電気回路の実験用の基盤)に虫や植物をつないで価値観の変化と循環を表現した作品、粉ミルクと骨壷で人間の命の循環を表現した作品などを彼はつくってきた。彼はそのひとつひとつの作品にたいして、どういうテーマがあってどういう目的でつくったかを順序だてて説明していく。たとえば、「価値観が視点によって簡単に変わる」⇒「発光ゴキブリとホタルとの対比を表現する」、「震災の影響を表現したい」⇒「粉ミルクと骨壷で命の循環を表現する」というふうに。

この発表は僕に、「表現するとはどういうことか」ということを教えてくれた。僕自身これまでいくつかの美術展に行ったことはあるが、芸術家が作品をなぜうみだすのかちゃんとわかっていなかった。今はまだかたちのない、伝えたくてたまらないことを限られた方法でどうやって表現するか。単純だが表現とはまさにこの活動を繰り返していくことにほかならない。彼のプレゼンは、表現の大切な思考方法を教えてくれた。

彼の思想が僕と共鳴し、彼に興味を抱かせた。同じようにたくさんの人が落合氏の思想に共感するだろう。そのようにして思想は草の根を広げていく。作品は思想を表現する手段であり、観客は作品から作家の思想を読み取る。

落合陽一氏は、最初テレビで見かけた時は怪しいまがいものじゃないかと思ったが、もともと本物だった。やはり、有名になる人は突出した才能を発揮したからこそ有名になったんだと思った。

 

なぜ浮気をするのか。浮気や不倫はなぜ悪いことなのか

今年に入ってから、芸能界の不倫や浮気に関するスキャンダルの話題が数多くでてきた。謝罪会見、活動自粛など、僕たちにしてみれば一体なんの意味があるんだろうというような話題で騒がれた。

実際、芸能人のプライベートをスキャンダルにして騒ぐのは、週刊誌やテレビ局の策略といえる。テレビをみていると芸能人の不倫スキャンダルは他のニュース(大統領選など)なんかよりよほど重大なことかのように扱われているが、実際に騒いでいるのは、メディアや利害関係者、あとは暇な大衆だけだろう。

一部の利害関係者と暇な大衆だけが不倫スキャンダルで騒いでいるといっても、日本の社会が不倫や浮気を”良くないこと”としているのは確かだ。また、週刊誌が毎週記事を書くのに事欠かないくらいに、不倫や浮気のネタは社会に溢れている。

「なぜ人は浮気してしまうのか?」を科学的に解説 - GIGAZINE

不倫ってそこまで責められるべき事なのでしょうか?30歳男です。妻(34歳... - Yahoo!知恵袋

上に示すように、浮気や不倫に関する議論は盛り上がる。しかし、道徳論や常識論で片付けられてしまうことが多く、本質的な議論をすることは難しい。

 なぜ僕たち(特に男)は不倫や浮気をしてしまうのだろう?なぜ不倫や浮気は”良くないこと”なのだろう?自分なりにちょっとだけ考えてみることにした。

 

一般的に女性より男の方が浮気をしやすいと言われている。女性は男の浮気に翻弄され悲しみを募らせる。

男が浮気をしやすいのには生物学的理由があると言われている。女性は生殖細胞を一個しかもっていないのに対し、男は数億個の生殖細胞を数日でつくることができる。また、卵子をもつ女性は男に比べて体内の子どもに対してより多くの投資をしなくてはいけない。そのため、女性は受精してからのリスクが高いので相手を慎重に選ぼうとするが、男は生殖細胞をより多く卵子に到達させようと行動する。より多くの卵子、つまり女を求める。

体内受精をする哺乳類では、体重に対する精巣の重さの割合が恋愛形態に関係していると言われている。精巣の重さの割合で比較すると、ヒトは乱婚のチンパンジーと一夫多妻のゴリラの間に位置する。乱婚のチンパンジーは精子競争をするため大量の精子を必要とし、一夫多妻のゴリラはオス同士の競争に勝つ必要があるため体が大きくなるというわけだ。この考え方では、ヒトには乱婚の可能性があることが示唆される。

ただ、生物学的特徴だけで男と女の性向差の理由を一概に決めることはできないのは確かだ。人間は他の動物とは違い、社会性をもつ種だ。動物の本能の部分と向社会的思考(理性)がせめぎあっているのが人間だ。生物学的観点から男の浮気を正当化して良いというわけではない。ただ、男が浮気をする本能をもつことは否定出来ない。

女性も浮気や不倫をする場合がる。これは、社会的な不満に原因があると考えるといいだろう。男のように生殖目的で異性を求めるのではなく、寂しさや不満足を埋め合わせるために他の異性を求める。女性が他の異性と行う性交は生殖目的ではなく、感情の充足のために行う。

恋愛に関する生物学的な説明は、以下の文献に面白く書かれています。

利己的な遺伝子 <増補新装版>  

ぼくは愛を証明しようと思う。 

脳内麻薬-人間を支配する快楽物質ドーパミンの正体

男は生物学的に多数の異性と交わるのを好む。では、なぜ不倫や浮気が良くないという価値観が現代社会にはあるのだろう?

一つは、一夫一婦制が法律によって定められていることにある。多数の妻をもつことは法律上できないよういなっている。また、結婚している男または女が他の異性と恋愛関係にあり、相手方が訴えた場合は、訴えられた側は不利な立場になることが多い。多くの異性と関係をもつことは、一夫一婦制に反するためたとえ独身時代であっても良くないと認識される。

だが、一夫一婦制は、最も正しい制度というわけではない。世界には一夫多妻制や一妻多夫制があるし、日本でも一夫多妻制が法律で決められたのは明治時代に入ってからだ。男女が一対一で一生過ごすという生き方は、世界標準でもないし、絶対的な正当性をもっているわけでもないことを忘れてはいけない。

純愛を美化する宗教や文化は、浮気や不倫は良くないという価値観を社会に浸透させた。キリスト教は純愛、というより純潔を良しとする宗教であり、江戸時代から日本に普及するようになってから、美化された恋愛価値観が社会に浸透した。一生ひとりの人に寄り添い、肉欲を封じながら生きていく価値観はある意味特殊であり、ニーチェに言わせればルサンチマンだということになるのだろう。また、純愛をテーマにした小説や映画が人の心を打つために、純愛至上主義という考え方が社会に浸透したと考えられる。

忘れてはならないのは、人間の感情だ。自分が一人でいる間に、相手が他人と仲良くしていると考えるのは、あまり気持ちのいいことではない。人間の「寂しい」という単純な感情を刺激するため、浮気や不倫は悪いことという価値観が形成されていったのだろう。

 

いろいろな理由があるだろうが、今年にはいってからの過剰なスキャンダルのような場合に限って言えば、僕たちが不倫や浮気に騒ぐのは植え付けられた貞操観念という拘束を破っている人達に単純に興味をもつからなのではないかと思ってしまう。

それはあたかも、お金持ちがどんな人柄なのかを知りたがるように。優秀なスポーツ選手をみんなが知りたがり称えるように。

人間は、自分にはない能力をもつ人や、自分にはできない生き方をしている人に興味をもつ性向がある。

貞操観念という拘束を破る勇気と才能をもった人間に興味をもち、僕たちは彼らを、表面ではけなしながらも心のどこかでは賛美しているのではないだろうか。

 

www.youtube.com

いつ何が降りかかってきても文句は言えない【雑文】

今日、改めて思い知らされたことがある。それは、

「僕たちはいつ何時、どんな悪いことが降りかかってきても文句をいうことはできない」

ということだ。

ここ数日、精神が不安定になっていて、自分のアイデンティティを見失っていた。自分を見失い、過去の教訓を忘れて、現実に流されるがままになっていた。そんなちょっとゆるんでいた僕に、人生は教訓を思い知らせてくれた。

 

何もかもうまくいく日もあれば、悪いことが一斉にやってくる日もある。

昨日、大切な人の誕生日を祝ってあげることにしていたのに、僕は途中で体調を崩してしまい、十分に祝ってあげることができなかった。自分のふがいなさに憤りを感じつつ、意識が朦朧とするなかで家に帰った。普段めったに体調を崩すことはないのになぜこんな日に限って……、と運の悪さを嘆いた。

ほとんど眠ることもできずに翌朝になって会社に行くと、朝一番の会議で司会を担当するはずだった同僚が急に休んだため、僕が代わりに司会をすることになった。ほとんど準備できていないし、意識も朦朧としている中でぐだぐだの司会をやってしまい、周囲からの評価を下げることになってしまった。

昨日の夜から散々な目にあった。悪いことは一斉にやってくるものだと感じた。

 

なぜこんなに悪いことが続くのだろう、と憤った。

「今回、自分が大切な人や会社の人からの評判を落としたのは運が悪かったせいだ。本当の自分はこんなんじゃない!」

と最初は考えていた。

でも、体調が良くなって考えてみると、周りからしてみれば僕の運の悪さなんてわかるはずがないじゃないか、と気づいた。運のいいときの僕も、悪いときの僕も、そのとき僕を観た人にとっては、どちらも僕であることに変わりはない。僕のその日の運に関係なく、「あの人はああいうひとなんだ」と思われるだけだ。それに、運のよさも悪さも含めて、僕がしたパフォーマンスは全て僕の行動結果(仕事)じゃないか。

つまるところ、運の悪さを言い訳にすることはできないということだ。

 

いつ何が降りかかってきても、僕たちは文句を言うことはできない。

一生分の運の悪さが一気に押し寄せてくることだってありえなくはない。空から大量のイワシが降りかかってくることもあるかもしれない。それでも僕たちは文句をいうことはできない。僕たちにできることは、あらゆる運の悪さにあらかじめ準備をしておくこと。それでも、容赦なく押し寄せる運の悪さを防ぎきれなかったときには、ベストを尽くすしかない。